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敗戦の色深まる秋の日。山本茂実さんが乗った篠ノ井線の列車は冠着トンネルを上れず、姨捨駅に戻って後押しの機関車を待った。南方戦線で負傷して送還。陸軍病院を転々とし故郷の松本に帰る途中だった

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車内は食糧の買い出し袋を背負った人々がじっとうずくまっていた。日が暮れた時、誰かが「お月様が昇るぞ」と叫んだ。まん丸な月だった。「姨捨で月見とはしゃれている」と一人が言うと、隣の中年男が「腹が減って何が名月だ」と言葉を吐き捨てた

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〈月は冴(さ)え渡り、空腹をかかえて力なくうずくまる人々の、はらわたに青白い月光がしみこんでくるようでした〉。作家となった山本さんは随筆「名月姨捨紀行」に書いている。当時は生き残った喜びと戦友を置き去りにしたうしろめたさが交じる複雑な興奮の渦中にあったという

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千年以上前の「古今和歌集」に一首載っている姨捨の月だ。江戸時代には俳人の松尾芭蕉や浮世絵師の歌川広重の作品の影響も受けて月見の名所として名が広がった。人々はそれぞれの人生の物語と重ね合わせ、それぞれの名月を胸に刻んできたのだろう

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山本さんは戦後四十数年たって姨捨駅ホームで酒を飲んだ。〈一点雲もない十五夜〉の月光のシャワーを浴びて涙した。すると列車に乗り合わせた人々が現れ語りかけてきた…。きょう昇る名月の光も多くの人の心に染み入るに違いない。

(9月15日)

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