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あすへのとびら 満蒙開拓の歴史 共に学んで橋を架ける

 中国では「日本人、おまえは鬼の子だ」と言われた。日本では「中国人!」と言葉を投げ付けられた。

 長野市の篠ノ井西中学校3年、北原康輝君の体験である。

 中国人の血が流れていることが嫌になり、自分自身と家族を恨んでいた。

 昨年、転機が訪れた。社会科の飯島春光先生に勧められ、祖父から家族の歴史を聞いた。

 曽祖母の北原さきさんは1936(昭和11)年、飯山から旧満州(中国東北部)に渡った満蒙開拓団の一員だった。

 夫は召集され硫黄島で戦死した。そして45年の敗戦。逃避行と過酷な収容所生活が続いた。さきさんは米を炊くと、子どもに焦げた部分を与え、うまく炊けた米は他の家族に回したという。

 やがて3人の娘のうち2人を中国人に預け、1人を連れて別の中国人と再婚した。戦後、帰国は実現せず、中国で亡くなった。

   <ルーツへの誇りを>

 さきさんの話を聞いた北原君は「満州国と僕」と題して作文を書き、9月の英語スピーチ大会で発表した。歴史を知ったうえで自分のルーツに誇りを持って生きる。そんな覚悟がにじむ内容だ。

 日本で生きる道を選んだ祖父母や、両親、兄弟ら一族は長野市篠ノ井で暮らす。北原君と同じように中国残留日本人4世に当たる世代が各地の学校で学ぶ。

 2000年に篠ノ井西中に赴任した飯島さんは、帰国生徒がいじめの標的になっている現実にぶつかった。満蒙開拓で余儀なくされた歴史を、本人も同級生も知らないことが深い溝を生んでいた。

 飯島さんは帰国生徒と一緒に家族への聞き取りを始めた。それを元に生徒に新聞を作ってもらった。一人一人の人生と満蒙開拓の歴史を重ね合わせ、命や平和の尊さ、日中の交流や未来なども考える授業の実践だ。

 満蒙開拓は当時の国策として遂行された。全国から約27万人が渡り、長野県からは県別で最多の約3万3000人の開拓団員と、約6600人の満蒙開拓青少年義勇軍を送り出した。

 旧ソ連軍の侵攻や集団自決などで多数の犠牲を出した。取り残された開拓団員は残留婦人や残留孤児として苦難の人生を歩んだ。

 戦争の教訓を刻む身近な歴史である。にもかかわらず多くの人が学校で学んだ記憶がないのではないか。教師自身も同様だろう。

 中学の教科書に掲載されるようになったのは近年のこと。高校でも学ぶ機会はほとんどない。日本史Bの教科書、例えば山川出版社には本文に記述がない。

 満蒙開拓は送り出した側の人もいて地域に複雑な意見がある。「教えにくい」と二の足を踏む先生もいよう。先生が多忙さを極める日常の壁は厚い。

 2013年、下伊那郡阿智村に満蒙開拓記念館が開館したのと前後して新たな動きが出てきた。

 同館は加害と被害両面から満蒙開拓に光を当てている。8月には飯田下伊那の先生の初任者研修が開かれた。「来館する先生は着実に増えています」。事務局長の三沢亜紀さんの実感だ。

 三沢さんはこう思う。若い先生はゼロからの出発。過去に縛られずに教えられる。近現代史は政治的なスタンスを問われて及び腰になりがちだが、生徒と「一緒に考えていこう」と踏み出せるよういざなっていきたい、と。

 県同和教育推進協議会は昨年改訂した副読本「あけぼの 人間に光あれ」に満蒙開拓を初めて特集した。10ページにわたって元開拓団員の証言、帰国者の体験などを紹介している。

 中心になった永池隆先生(現岡谷西部中校長)は「出自を明らかにできず、自分自身を解放できないなど共通する問題がある」と人権・同和教育の柱に位置付ける。

   <一人一人に寄り添う>

 篠ノ井西中には中国残留日本人3世、4世の生徒が13人通学している。一人一人に寄り添って家族の歴史に学びつつ、同級生に理解が広がる教育を実践している。

 日本語が十分に理解できない生徒をサポートするため、中国人の支援員らがいる特別学級の「国際室」も備えている。

 飯島さんは「満州で助けられた命をしっかり引き継ぎ、自分の人生を堂々と歩めと教えている。日本人の命を助けた中国人への敬意も育てたい」とする。

 北原君は作文をこんな言葉で締めくくっている。

 〈僕は将来、僕の子どもたちに家族の歴史をきちんと話し、日本と中国の架け橋になりたい〉

 篠ノ井西中のように支援態勢が整っていない学校では、ルーツが中国にもあることを隠す生徒はいないか。共に学んで歴史を知れば深い溝に橋を架けられる。見て見ぬふりはその可能性を摘む。

(11月13日)

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