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日本と化学兵器 加害と被害の教訓は重い

 「ウサギの島」として知られる広島県の大久野島。至る所で愛らしい姿が見られ、観光客が急増している。

 海外で話題になるほどだが、負の歴史を背負っていることにはあまり光が当たらない。旧日本陸軍が毒ガス生産の拠点にしたことだ。国際法に反し、実戦使用もした。

 工場に動員された人々はひどい後遺症に長年苦しめられてきた。広島にとっては原爆の被害とともに戦争のむごさを後世に伝える重要な意味を持つが、関係者は年々減り、体験を継承するのが難しくなっている。



   <風化させぬ努力を>

 1997年に発効した化学兵器禁止条約が先月、20年の節目を迎えた。加盟国が申告した兵器の95%が破壊され、一定の成果は出ている。が、条約に基づき廃棄が終わったはずのシリアで使用されるなど、根絶には程遠い。

 化学兵器に関し、われわれ日本人は加害と被害の両方の立場を経験している。

 何をなすべきか。第一に歴史の真実と向き合い、記憶を風化させないことだ。化学兵器の非人道性を世界の人々に訴えていく力を養っていきたい。

 化学兵器は材料が手に入りやすく、簡単な技術や設備で製造できることから「貧者の核兵器」とも呼ばれてきた。

 近代戦で初めて使われたのは、1914〜18年の第1次世界大戦だ。化学研究が進んでいたドイツがフランスをはじめとする連合軍に対し、塩素ガスを使用したことに始まる。その後、開発競争が激化し、致死性のあるイペリットを各国が開発。死者は10万人に達したともいわれる。

 この惨禍を教訓に、毒ガスの実戦使用を禁じるジュネーブ議定書が25年に成立する。化学兵器に歯止めをかける初の国際法となったが、研究、開発、保有には縛りがかからなかった。

 旧日本軍はこの弱点を利用し、毒ガスの研究を始めた。陸軍は29(昭和4)年から敗戦近くまで大久野島を中心にイペリットなど、大量の毒ガスを生産している。軍事機密だったため、島の存在は地図から消された。

 日中戦争ではジュネーブ議定書を無視し、実際に使った。戦争に敗れると、中国大陸の各地に捨ててきた。戦後、黒竜江省などで遺棄弾から漏れた毒ガスに住民らが触れる事故が続発し、死傷者を出す事態を招いている。

 日本政府は化学兵器禁止条約で義務付けられた中国における遺棄化学兵器の廃棄処理を2000年から始めた。条約発効当初は10年で終わらせるはずだったが、予想を上回る量が見つかり、計画延長が繰り返されている。

 内閣府の遺棄化学兵器処理担当室によると、これまでに約3千億円を予算計上し、約4万5千発を無害化した。今後、30万〜40万発が埋まっているとされる中国東北部のハルバ嶺での処理を本格化させる。目標とする22年までに終わる見通しは立っていない。

 一方、大久野島での毒ガス製造の被害者は6千人を超えるともいわれる。安全対策は不十分で、毒ガスに触れた工員や動員学徒らは皮膚や呼吸器に激しい炎症を起こした。失明したり、がんを発症したりした人もいる。

 30年前には毒ガス製造に従事したことを証明する健康管理手帳を約4800人が持っていた。現在は約1800人まで減り、平均年齢は89歳を超える。十分な医療を受けられないまま亡くなった人は少なくない。

 この問題を広く伝えたのが、諏訪郡富士見町出身の報道写真家、樋口健二さん(80)だ。四日市公害を取材する過程で毒ガス被害者の存在を知った。1970年から島に通い始め、工場跡や被害者の姿を撮影し、83年に写真集「毒ガスの島」を出版した。

 水膨れした皮膚のアップ写真や病院のベッドでもがき苦しむ患者の様子など、被害の実態をありのまま掲載した。当初の反響は大ききかったが、しばらくして関心は薄れて絶版となった。

 2年前、この写真集が増補新版となって再び世に出た。「安倍晋三政権の下、国家統制色を強める政治状況がよみがえらせた」と樋口さんは語る。



   <深刻な影響が残る>

 中国や大久野島、シリアなどの被害者が問い掛けるのは、代償の大きさだ。化学兵器は核同様、いったん牙をむけば、深刻な影響が後々まで残る。オウム真理教が引き起こした松本サリン事件や地下鉄サリン事件などの化学テロでも今なお多く人が後遺症に苦しめられている。

 加害と被害の教訓をくみ取り、化学兵器の根絶に向けて生かしていくことができるか。日本に課せられた重い使命である。

(5月14日)

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