長野県のニュース

あすへのとびら 御嶽噴火から3年 信仰の山を未来へつなぐ

 噴火から3年を前に御嶽山を訪ねた。

 木曽町からの登山道を6時間ほど。五の池小屋に着く。山頂部で唯一、登山者を受け入れている小屋である。岐阜県下呂市が運営している。

 中京からの登山者が多い。岐阜側の入山規制解除を待って、その後何回も来ているという人たちだった。

 「名古屋の水はこの山から来ていると学校で教わった。愛知県民には特別の山です」「夜、名古屋の方を見下ろすと、近郊を走る電車のパンタグラフのスパークが見えるんですよ」

 寄せる思いを語り合う。御嶽は今も磁力で人々を引きつける。

 「私たちはみんな御嶽の恩恵を受けてきた。あの出来事だけで遠ざけてはいけない、と思ってやっています」。小屋の管理人市川典司さんの話だ。

 宿泊客は噴火前の半分近くにまで戻ってきたという。復活への手応えを感じている。

 天をつく摩利支天(まりしてん)山、ライチョウが多い継子(ままこ)岳、青空を映す三ノ池…。山は昔のままの姿で登山者を迎えている。

 木曽町からの登山道は丁寧に手入れされ、噴火前より登りやすくなった。復活を願う地元の気持ちが伝わってくる。

 剣ケ峰の上空ではヘリコプターが飛んでいた。頂上の小屋を避難シェルターに造り替える工事を木曽町が進めている。山頂から少し下がった二ノ池本館は基礎工事が進んでいた。屋根や壁を強化して宿泊できる小屋にする。

   <危険と向き合う>

 山頂滞在は短時間にとどめ休憩、宿泊は安全な場所で―。新しい登山の形が見え始めている。

 気象庁などは山中に観測機器を増設してきた。御嶽は日本で最も観測体制の整った山の一つになりつつある。山小屋、シェルターなどハード面、情報伝達、避難誘導などソフト面を組み合わせて、安心して登れる山にしたい。

 本来ならもっと早くから進めるべき対策だったのかもしれない。

 1979年10月28日早朝、御嶽は有史以来初めて噴火した。その時、山頂付近では数人の登山者がテント泊していた。

 地獄谷側から猛烈に噴煙が噴き上げてきた。一瞬、真っ暗になり、ジェット機のようなごう音と、小指大からピンポン球大の小石が雨のように降った―。

 登山者の証言である。3年前の噴火とそっくりだ。

 地元は登山禁止措置を取ったものの、犠牲者が出なかったこともあって警戒はいつしか緩んだ。そして58人死亡、5人が行方不明となったあの惨事に至る。同じことを繰り返すわけにはいかない。

 火山活動には分からないことが多い。御嶽を長く研究する東濃地震科学研究所の木股文昭さんは近著で、御嶽がこの次どんな形で噴火するかについて、「残念ながら私たちは現在、いかなる解答も持っていない」と書いている。

 危険があるからといって山を遠ざけることは避けたい。やれることを全部やった上で、ある程度のリスクは承知の上で付き合う。それがとるべき姿勢だろう。

 犠牲者遺族らが国と県に損害賠償を求める裁判が進んでいる。

 噴火の兆候があったのになぜ警戒レベルを引き上げなかったのか。大勢の登山者がいることを考慮しなかったのは妥当だったのか。地震計の故障をすぐ直さなかったことに問題はないか―。裁判のポイントである。

 御嶽と今後付き合っていく上でも大事な論点だ。すべての問題を丁寧に検討し、安全向上につながる裁判にしてもらいたい。

 信仰の山である。古くは厳しい修行を重ねた人だけが登っていた。誰もが登れる山にしたのは江戸中期の行者、覚明(かくめい)と普寛(ふかん)である。禁を犯し大勢の信者を連れて強行登山して山を開いた。

   <あのウェストンも>

 麓には数万基の霊神碑が立ち並ぶ。行者のいわば墓標である。信者は御座(おざ)と呼ばれる神事で先祖や神々と交信する。

 1894(明治27)年に御嶽を訪ねた英国人宣教師ウォルター・ウェストンは、心の浄化を求めて一心に滝行する信者の姿に気持ちを揺さぶられ、書いている。神をおそれ正義をなす人を神は受け入れる、という聖書の言葉はこんな人にこそ当てはまる、と。

 山岳信仰が今も生きている山は少ない。廃れさせるわけにはいかない。犠牲者、不明者を思いつつ、安全に登れる仕組みを作って未来へつないでいこう。

(9月24日)

最近の社説