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斜面

キンモクセイの甘い香りが風にとけて漂ってくる。立ち止まって見回してもだいだい色の花は容易に見つからない。夜道はなおさらだ。信毎歌壇にこんな一首があった。〈雨の夜金木犀の香り来て見知らぬ路へ吾れを誘ふ〉市村紀久子

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鮮やかな香りゆえか、大切な記憶と結び付く。ノーベル賞受賞者の湯川秀樹は家の庭のキンモクセイから香りが入ってくると思い出がよみがえった。子どものころ住んでいた家にもあった。香りが好きだった母が木のそばで黙ってたたずんでいたという

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文学に親しみ短歌も詠んだ湯川が随想「きんもくせい」に書いた。文章はこう結ばれる。科学文明は人間の視覚と聴覚を強化したが、他の感覚は強化されず嗅覚は衰えたのではないか。「におい」も科学の対象であり、研究が進めば生活に新しい喜びと豊かさをもたらすだろう―

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それから半世紀。鼻の「におい受容体」など嗅覚の仕組みが明らかになってきた。人工の受容体を組み込んだロボットも開発された。脳科学の分野からも研究が進む。いずれ全貌が解明されるのだろう。だが幾つかの「不思議」は残ってほしいとも思う

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本紙建設標で下伊那の女子高生の投稿を読んだことがある。帰り道、良い香りがして見上げるとキンモクセイがあった。今まで気付かずもったいないと思い携帯を見ずに歩いた。モミジとそれを映す水たまりなど全てが新鮮で新しい世界に感じられた―。香りは感性を呼び戻してもくれる。

(9月30日)

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