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人文学の危機 大学の足元を揺さぶる

 日本の大学、教育の質は大丈夫なのか。

 そんな懸念が大学関係者から相次いで出ている。とりわけ、人文系の教育に携わる教員の受け止めは深刻になる一方だ。

 ことの発端は、2015年6月8日に当時の下村博文文部科学相が全国の国立大学に出した通知である。人文社会科学系と教員養成系の学部に関し「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努める」と迫った。



   <背景に政権の意向>

 下村氏は「すぐに役立つ実学を重視すべきだと申し上げているわけではない」と釈明したものの、衝撃は大きかった。

 日本学術会議は「人文社会科学の軽視は大学教育全体を底の浅いものにしかねない」とする声明を発表し、信大など国立大17校の人文系学部長でつくる会議も抗議声明を出した。海外メディアもこの問題を報じている。

 背景には、安倍晋三首相が政権運営の要とする成長戦略がある。通知に先立つ1年前、首相は国際会議でこんな演説をしている。

 「学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な職業教育を行う。そうした新たな枠組みを高等教育に取り込みたい」

 下村氏の通知は既に公表されていた改革方針に基づくものだったが、政権の意向が反映していることを印象づけた。今も「6・8通知」と称され、学界から「文系軽視」との批判が続いている。

 今春、信大人文学部の三谷尚澄准教授が「哲学しててもいいですか? 文系学部不要論へのささやかな反論」(ナカニシヤ出版)という本を出した。地方の国立大や人文系分野が直面する厳しい状況を描き、話題になった。

 象徴的な事例が載っている。三谷さんが教えている学生が進路について学部外の教員と話していたときのことだ。

 「なぜ哲学をやっているのか」との質問に、学生は「面白いからやっています」と答えた。

 すると、その教員は国立大の学生には多額の税金がつぎ込まれているとした上で「自分が社会に対してどのように貢献できるのかを日ごろからしっかり意識しておかなければいけません」ときつくしかったという。

 職務上、学生のためを思ってこう言ったのだろう。けれど、学問には医学や工学のように成果が見えやすいものもあれば、哲学や文学のように人間性を豊かにし、生きていく上で目に見えない力になるものもある。何より、学ぶ楽しみを置き去りにし、国が大学を単に職業訓練の場であるかのように鋳型にはめるようなことがあっていいのだろうか。

 国立大の改革は行政改革の一環として進められた。2004年に国の直轄から離れ、独立行政法人になる。新たに大学運営交付金制度が設けられたものの、厳しい財政事情を背景に額は毎年1%前後削減されてきた。競争原理を導入し、資金獲得など経営努力を求められるようになった。

 信大の運営交付金は04年度は約170億円あった。昨年度は約139億円で当初より約20%減っている。近年は横ばい傾向になってきたが、影響は大きい。人文学部では教員が退職すると補充がままならない事態を招いている。

 例えば、法人化前に4人いたドイツ語学・ドイツ文学の教員は今は准教授1人になってしまった。日本史も古代、中世、近世、近現代と、それぞれを専門にする教員がそろっていたが、今は中世史の専任がいない。

 学部内に18ある専門分野の再編を迫られている。他の地方国立大でも事情は同様だろう。

 安倍政権は先の総選挙で、消費税の使い道を高等教育の負担軽減に充てることなどを争点にして勝った。仮に若者が大学に入りやすくなったとしても、入学先の大学が多様な専攻分野を整えられず、高等教育機関として十分機能しないことすら考えられる。

 「哲学は事象などを批判的に思考する能力を養う学問。大学が国から鋳型に押し込められようとする中、これでいいのか、と多くの人に考えてもらいたい。今こそ哲学の出番だと思う」。三谷さんはこう語った。



   <強まる締め付け>

 かつて大学の自治を担った教授会の役割を狭める改正学校教育法が2年前に施行された。国による締め付けは強まる一方だ。財政難や少子化など、大学を巡る環境が厳しいのは事実だが、安倍政権が進める教育改革には厳しい目を向ける必要がある。

 「哲学しててもいいですか」

 この自虐的な表現の裏には、学問の自由や大学の自治を守りたいという強い意思が込められているように思えた。

(11月19日)

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