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佐久間象山の未公開書簡 義兄の勝海舟宛て

佐久間象山が勝海舟に宛てた書簡。1857(安政4)年当時の象山の考え方が読み取れる佐久間象山が勝海舟に宛てた書簡。1857(安政4)年当時の象山の考え方が読み取れる
 思想家で松代藩士の佐久間象山(1811〜64年)が1857(安政4)年に義兄で幕臣の勝海舟(1823〜99年)宛てに書いた書簡が見つかった。江戸を離れ松代(現長野市松代町)で蟄居(ちっきょ)しながらも、海外の情報を熱心に集めていたことや、洋学を学んで列強に対抗する力を付けるべきだとする思想が読み取れる。専門家は、幕末の動乱期に重要な役割を果たした2人の当時の動向を示す貴重な史料として注目している。

 杏林大(東京)総合政策学部の松田和晃教授(63)=日本文化史=が20年ほど前に知人から入手した勝海舟関連の史料に含まれていた。解読を進めた結果、象山からの書簡と判明した。

 書簡は縦17・3センチ、横78・8センチ。4月8日付で、年は明記されていないが、松田教授は複数の文献と照らし合わせることで特定した。象山の妻順子は海舟の妹で、親戚同士でもある2人がやりとりした書簡はこれまでも見つかっているが、松田教授によると57年前半の書簡の確認は初めて。史料的空白を埋めることができるという。

 「清国にて又々(またまた)戦争はしまり候(そうろう)よし」(清国でまた戦争が始まったとのこと)など、海外への言及が目を引く内容の一つ。清国と英仏との間で起こった第2次アヘン戦争(アロー戦争、1856〜60年)を指すとみられる。この戦争について「本邦の御為ニハ揆(はか)らさる天幸」(わが国のためにはめったにない幸い)と記述。この間に日本の防備を強化すべきだとの考えがうかがえる。

 当時はペリーの黒船来航の4年後。象山は門人吉田松陰の密航企画に連座し、松代で謹慎していた。松田教授は「象山は各地の弟子を通じてアンテナを張っていた。情報収集にとどまらず自らも手紙で発信していた」とみる。

 象山は、清国が英国に敗れたアヘン戦争(1840〜42年)で欧米列強の脅威に目覚めたとされるが、この書簡からも機敏に反応していることが分かる。

 思想面では、「自己のこだわりを捨て人に従う」を意味する「舎己従人」という言葉を使っている。洋学を積極的に受け入れるよう主張し、海舟に海外遊学を勧めた象山は書簡で「他国の良い点を取り入れる度量を持てば、20年以内に学問も技術も欧州をしのぐ勢いになることは不可能ではない」との持論を展開。海舟は3年後の60(万延元)年、幕府の軍艦咸臨丸(かんりんまる)の艦長として渡米を実現した。

 象山の当時の人脈も読み取れる。弟子で土佐藩(現高知県)の漢学者森田梅〓(石ヘンに間の日が月)(ばいかん)の文才を認め、洋学を勧めている。同じく弟子で松陰と同門の松代藩士蟻川直方や、海舟と共に江戸城無血開城に尽力した幕臣、大久保忠寛(一翁)の名も記されている。

 松田教授は「象山は弟子が200人以上いた。彼らが中心になって明治維新を実現し、新政府をつくった」と強調。書簡の内容に「今後の象山らの研究に役立ててほしい」と期待している。

(1月9日)

長野県のニュース(1月9日)