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あすへのとびら パレスチナ難民の70年 帰還の願いかなわぬまま

 先月、一人の若いピアニストが来日し、東京と広島で演奏会を開いた。エイハム・アハマドさん。シリアの首都郊外にある難民キャンプで生まれ育ったパレスチナ難民だ。

 祖父がイスラエルの建国で故郷を追われ、シリアに逃れた。家に戻ることはかなわないまま、難民キャンプでの暮らしは何代にもわたる。

 日本に招いたNPO「スタンド・ウィズ・シリア・ジャパン」によると、アハマドさんは今、内戦が続くシリアを逃れてドイツに暮らす。シリアにとどまった高齢の両親とは離れ離れになり、パレスチナはいっそう遠くなった。

 1948年にイスラエルは建国を宣言した。14日で70年になる。その年月は、故郷を奪われたパレスチナの人々の苦難の歴史と重なり合う。

 土地なき民に、民なき土地を―。19世紀末に興ったユダヤ人による建国運動は、欧州で受けてきた根深い差別が背景にあった。ナチス・ドイツによる迫害を経て、移住の動きは強まる。

   <自治の実現さえ遠く>

 けれども、パレスチナは「民なき土地」ではなかった。建国前後の住民の追放やアラブ諸国との戦争で土地を追われたパレスチナ人は50年までに95万人に上った。当時の人口の7割である。“消えた村”は400を超す。

 イスラエル領に接するガザ、ヨルダン川西岸地区や周辺国に逃れた難民は、世代を重ねて560万人に増えている。テントが立ち並んでいたキャンプは、コンクリートの家がひしめく“定住”の地へと変わった。その光景は、置き去りにされてきた難民問題を解決する難しさを映し出してもいる。

 難民には「帰還する権利」が保障されなければならない。国連総会は48年12月、早期の帰還と補償を求める決議を採択した。今もそれは効力を失っていない。

 イスラエルは帰還権を認めることを一切拒んできた。「アラブ系の人々は自発的にこの地を離れた」と主張し、交渉に応じようとさえしていない。

 93年のオスロ合意は、67年にイスラエルが占領したガザと西岸でのパレスチナの自治に道を開いた。将来の「2国家共存」に向けた画期となる一方、難民の帰還権は棚上げされ、聖地エルサレムの帰属などとともに、その後の交渉に委ねられた。

 四半世紀を経て交渉に進展はなく、自治の実現すら遠い。西岸では合意後も入植地(ユダヤ人居住地)が拡大して家や農地、水源が接収され、パレスチナ人の居住地はずたずたに分断されている。

 ガザは、厳しい封鎖に加え、大規模な軍事攻撃に何度もさらされてきた。狭い区域に人口が密集し、逃げ場はないに等しい。2014年の爆撃と侵攻では2200人余が死亡し、そのうち500人以上が子どもだった。

   <公正な世界のために>

 50年余に及ぶ占領下、人々の状況は過酷さを増すばかりだ。そして、難民の帰還権はその後景にかすんでいる。

 西岸やエルサレムでは「ナイフ・インティファーダ」が数年前から続く。主に10代の若者が家にある調理用のナイフなどを手に、武装したイスラエル兵や入植者を襲う。かつてのインティファーダ(民衆の抵抗運動)とは異なる刹那的な単独行動だ。

 多くは、その場で射殺されている。それでも行動に出る若者たちの姿に、絶望の深さが見えてくる。占領への抵抗の意思をほかに表しようがない現実がある。

 イスラエルへの国際社会の批判は強い。製品の不買運動は欧州を中心に広がり、取引や投資をやめる企業のほか、学術交流を打ち切った学会もある。

 一貫してイスラエルを擁護してきた米国も、オバマ前政権当時は姿勢に変化の兆しが見えた。けれども、政権交代で一変する。露骨にイスラエル寄りの姿勢を取るトランプ政権を後ろ盾に、入植地の建設はさらに活発化した。

 難民の帰還を訴えて3月末からガザで続くデモは、イスラエル軍に実力で制圧され、40人以上が死亡している。14歳の少年や取材中の記者も撃たれて亡くなった。

 土地を追われ、また占領下で、パレスチナの人々は尊厳と権利を奪われ続けている。宗教の違いは、問題を複雑にしている面はあっても、核心ではない。そのことも理解しておきたい。

 長い年月の間に既成事実が積み重なり、解決が難しいことは確かだ。だからといって、諦め、沈黙してしまえば、弱い者に服従を強いる不公正な世界のあり方を肯定することになる。

 同じこの世界に暮らす一人として何ができるのか。状況が困難であるからこそ、パレスチナに関心を向け、考え続けたい。

(5月13日)

長野県のニュース(5月13日)