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一茶の庵号「二六庵」 3年は使っていた 信濃町の記念館が新史料入手

「二六庵 一茶」(右ページ下)と記された句が載っている享和3(1803)年刊行の句集「二六庵 一茶」(右ページ下)と記された句が載っている享和3(1803)年刊行の句集
 上水内郡信濃町出身の俳人小林一茶(1763〜1827年)が庵号「二六庵」を名乗っていた期間が、これまで考えられていた「少なくとも1年」より2年ほど長かったことが29日、一茶記念館(信濃町)の学芸員が入手した新史料で分かった。一茶はその頃属した葛飾派の宗匠から「二六庵」を受け継いだが、その後は葛飾派から距離を置き、他の俳人との交流を深めていったとされる。その経緯はよく分かっておらず、一茶研究者の矢羽勝幸さん(73)=第25回信毎賞、上田市=は「貴重な史料」と評価している。

 新史料は、享和3(1803)年12月に刊行された句集(縦22センチ、横15・5センチ)。享和元年に死去した葛飾派の俳人・中村一馬の三回忌に、親しかった俳人の追悼の句を集めたもので、一茶記念館の渡辺洋学芸員が古書店で手に入れた。「杖(つえ)かりし夜ハおとゝしよ門の雪」の句と共に「二六庵 一茶」と記されている。

 一茶は江戸で、葛飾派の溝口素丸や小林竹阿らに師事し、寛政4(1792)年から6年間、四国や九州を旅した。「二六庵」の号は竹阿から受け継ぎ、寛政12(1800)年には葛飾派の俳書に登場する。ただ矢羽さんによると、名乗っていた記録は享和元(1801)年までしか見つかっていなかった。一茶が自ら号を放棄して葛飾派を離れた、葛飾派の宗家から号を剥奪されたといった推測があった。

 一茶は葛飾派から距離を置く一方、江戸俳壇の中心勢力だった夏目成美らとの交流を深め、後に成美が率いるグループの主要俳人となる。「二六庵」を少なくとも3年は使っていたことが今回分かり、矢羽さんは「成美らと上手に付き合いながら、緩やかに葛飾派から『脱皮』していったのではないか」とする。

 一茶記念館は30日、矢羽さんが新史料を解説する講演会を同館で開く。午後2〜4時。聴講は無料だが、入館料(500円)が必要。問い合わせは同館(電話026・255・3741)へ。

(6月30日)

長野県のニュース(6月30日)