市内に住む、八十代後半のその女性は一人で来た。善光寺参りをした後、中央通りを下り、表彰式会場に立ち寄った。「(五輪は)今日が最後と思って来ました」。街のにぎわいに身を置きながら、半世紀前の夏祭りを思い起こしていた。
戦前、結婚してふるさとの長野を離れ、東京に住んでいた。間もなく夫の仕事で旧満州(中国東北部)へ。敗戦翌年の一九四六(昭和二十一)年、長野に引き揚げた。そのころ、長野の夏を彩った「祇園祭」の屋台で踊る芸者さんの姿に見とれた。中央通り沿いを埋め尽くして繰り出す熱気から、生きる力をもらったような気がした。
「人出っていいですねえ。長生きしてまた思い出ができました」
五輪の街には期間中、世代を超えて日本中、世界各地から人々が集った。表彰式会場の観客だけで約十五万人。通りには連日、人の波が続き、あちこちで人だかりができた。
人出が爆発的に増えたきっかけは「感動」だった。大会四日目の十日、スピードスケート男子五百メートルで清水宏保選手が金メダルを獲得。「思わず、子どもを連れて家を飛び出して来た」と長野市安茂里の主婦山崎裕子さん(38)。
ピンバッジの交換などを通して、街角コミュニケーションも生まれた。上田市の自営業島田一男さん(33)はアイスホッケーなどの観戦で期間中三回、長野を訪れた。そのたびに満員電車の中で、乗り合わせた外国人とピンバッジを交換した。「ありがとう」と交わした言葉がうれしかった。
権堂町ですし店を経営する鈴木喜八郎さん(54)は常連になった外国人と一緒に写真を撮ったり、片言の英語で会話した。最初は「にぎりを大きめに」特別扱いしたが、閉幕が近付くと普通サイズにし、代わりにたくさんのネタを味わってもらった。自然体に戻る自分に気付いた。
大型店で働く女性の胸には二十個のピンバッジ。お客さんとはそれまで「売る」「買う」だけの関係だった。が、ピン交換を通じて「親しみ」を感じるようになり、気軽に会話を交わすようになった。
五輪の「にぎわい」は、人々の心に財産を残すだけでなく、街の将来を考える材料も提供している。
表彰式後にジャマイカ・フェスティバルが開かれた十九日夜。長野市松代町の建設業、斉藤義則さん(49)は妻と二人の子供と四人で訪れた。ステージで本場のレゲエアーチストに加え、ボブスレーチームの四人も歌い、踊った。世界とつながる祭りの雰囲気を楽しんだ斉藤さんは「街の中にこういう広場が残せれば、すごいと思う」と話した。
中央通りは郊外の大型店に買い物客が流出、空き店舗が増え空洞化が進む。セントラルスクゥエアの用地も八〇年に大型店が撤退、その後計画されたホテル建設もバブル崩壊を受けてとん挫し、空き地になっていた。北信地方の九十一社が出資、同名の会社を設立して整備した。
目と鼻の先に住み、表彰式のボランティアを務めた徳永こと子さん(62)と長女の貴子さん(27)。貴子さんは期間中、過労で倒れ、午前中に点滴を打ってアシスタント役をこなした。こと子さんも閉会式を前にダウンした。が、選手の笑顔と街のにぎわいを思い起こすと苦労は吹き飛ぶ。
スクゥエアは二十三日、片付けが始まった。二人は五輪後もにぎわいを生む街の空間であってほしい、と願っている。
(1998年2月24日 信濃毎日新聞掲載)