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3月6日(金)
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競技28年、スポーツマンの心 アイススレッジホッケー松井主将
五日、アイススレッジホッケー日本チーム主将として参加した開会式。過去最多の六十九人の日本選手団は、年代も十五歳から五十二歳まで幅広い。地元開催の緊張、感慨が漂う。松井は「少しは思い入れがあるが、いろいろな大会の一つ」と自然体だ。 自負がある。「僕は二十八年前からスポーツをやってきた。福祉の一環と見ないでほしい」。常にそう口にしてきた。 車いすバスケットボール、陸上、テニス、チェアスキー。負けず嫌いの性分で出合ったスポーツは多い。八八年にはソウルパラリンピックの陸上にも出場した。経営する福祉機器の設計・販売会社では六人のうち三人が長野パラリンピック選手だ。合宿などで仕事に響くこともある。選手の一人は「でも、社長は『遠慮なく行ってこい』と言ってくれる。今しかできないことだからと」と話す。 交通事故に遭い、下半身まひになったのは福岡県にいた十九歳の時。入院先の病院の紹介や仕事を得るために、長野県に移り住んだ。毎日使う車いすは、近視の人が掛ける眼鏡と変わらないと考える。障害を言い訳にしたり、引っ込み思案になることを最も嫌った。「昔から自分の思いを通す人」。かつてのバスケット仲間はそう評する。 十年ほど前の県内初の車いすテニス大会創設にも加わった。海外選手の招待、ボランティア募集、運営費調達…。ゼロから積み上げてきたものは数えきれない。 県チェアスキー協会長でもある。もともとはアルペンスキーで長野パラリンピック出場を目指していた。冬になれば仕事の後、週三回はナイタースキーに通う。だが、スレッジホッケーの強化が始まってからは小休止。「夜、家にいるようになりました」。家族はちょっと喜んでいる。 テニスで酷使してきた肩の状態は良くならない。手術も考えた。それをおいてリンクに上がる。スレッジホッケーで「結果」を残したいからだ。長野パラリンピックは挑戦の舞台にほかならない。
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