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幻のそば

5月
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 5月14日、久しぶりに飯山市富倉を訪ねた。新聞に「富倉山菜祭り」が開かれる、という記事を見かけたので、蕎麦を食べるのにもいいかしら、と思いついたのである。

 富倉では毎年、11月の第2日曜日のあたりで、「富倉新そば祭り」を開いてきた。それが昨年は中止になり、かわりに飯山駅前の施設で、市内の何カ所かの蕎麦産地が出店した合同のそば祭りが開かれた。人気があったので、長い行列が出来たのだが、中でも「富倉そば」に客が殺到した。簡単には食べられなかったので、私は他の産地の蕎麦を食べたものだった。

 この「富倉新そば祭り」は、細かいことは知らないが、どこかで、「山菜祭り(山菜市)」と重なっている催しだとずっと思っていた。

 富倉は、蕎麦や笹寿司が有名だが、それ以上に、山菜の宝庫として、早くから知られていた。遠くから飲食店なども買い付けに来るくらいで、味がいい、姿が立派だ、と喜ばれたものである。毎年、何度か開催されたのだが、朝早くに始まり、昼ころには終わってしまうこともあったはず。何回か参加したことがあるが、いつも感心するような品物が並んでいた...。

 そんなイベントの延長に、11月の「新そば祭り」が開かれていた、とぼんやり記憶する。時期とすれば、当然、秋ソバの収穫があり、その「新そば」が味わえる、絶好の機会だったのである。

 しかし昨年は、なぜか、「新そば祭り」は開催されなかった。地域住民の老齢化が進んで、開催する元気がなくなった、ということだろうか。

     ☆

 今年は5月に「山菜祭り」があるという。当然、「富倉そば」が食べられるはず、と思った。

 少し前の新聞に、休止していた「かじか荘」が春になって再開したと言うニュースが出ていた。「かじか荘」は、旧富倉小学校跡地に、ムラの活性化の拠点として作られた食堂。「幻のそば」と呼ばれた「富倉そば」がいつでも気軽に食べられるようになったのがありがたかった。

 「かじか荘」より前に、「郷土(ごうど)食堂」という個人経営のそば屋が出来ていた。私が最初に「富倉そば」を食べたのは、この「郷土食堂」だった。昭和54(1979)年9月、名物の富倉神社の例大祭の夜で、勇壮な「ヒャット」と呼ばれる演武を楽しむことが出来た。

 この時の蕎麦は今の戸隠蕎麦と同じように、小さく丸めた玉状の姿で、竹ザルに盛ってあった。味はなかなかよかった。薬味には皮つきのアサツキ(アサズキ)が添えてあるのが珍しかった。

 十数年後、また「ヒャット」の夜に、民家に泊めて頂いて蕎麦を食べることが出来た。やはり味はよかった。いろいろしつこく聞いて、富倉では以前は、蕎麦は冬に温かいもので食べるのが普通だったという。そして「とうじて」食べた、と。そうか、ここでも「とうじそば」だったのか...。以前に「郷土食堂」で食べた時には、玉状に盛られていた、それは「とうじそば」の名残りだったのか、とわかった。さらに、どうやって「とうじる」のかと聞くと、お湯で温めた、という。やはりそうか...「とうじる」は「湯じる」と書く方が当たっていたのか、と感心したものだった...。

 もっとも、別の機会に、民宿を兼ねた食堂では、そこのご主人から、蕎麦は昔から冷たいものを食べていた、とはっきり言われたことがある。いろいろな食べ方があったのかもしれない...。

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 「富倉そば」が「幻のそば」と呼ばれるようになったのは、かなり古くからだったらしい。私の記憶では、昭和40年代だったような気がする。まだ信州でも「蕎麦ブーム」ではなかった時期である。

 富倉はもともと、新潟県妙高・新井地域と飯山市を結ぶ古い街道の要衝に位置していた。戦国時代には上杉謙信がここを通って飯山へ攻め込む軍事的にも重要な地点だった。その由縁で、ここの押し寿司は「謙信寿司」とも呼ばれている...。

 信越国境は国道18号が幹線道路として整備された。富倉を通る街道は、後から国道に指定された(292号)が、その整備は遅れた。

 信越国境は日本でも有数の豪雪地帯。冬になれば、交通がまことに不便になる。除雪などがままならず、外部から訪問するのが困難な状態になる。私も真冬に訪問したことがあるが、その雪の深さにびっくりしたものだった。

 この富倉で、美味しい蕎麦が食べられるらしい、とかすかな評判が立ってきたのはいつだったか。飯山市街地では早くから知られていたらしいが...。蕎麦の作り方が、ヤマゴボウ(オヤマボクチ)だけをツナギとする独特な打ち方だったので、これも含めて「幻のそば」と呼ばれるようになったのだろう...。

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 毎年開かれる「富倉新そば祭り」で、私は何度も美味しい蕎麦を味わった。

 中でも印象が強かったのは、地元の女性たちが、ここの蕎麦の打ち方を披露する実演の時。ヤマゴボウの細かい繊維をほんの一つまみ、粉の中央に入れ、熱湯で溶かすようにしながら、こねていく。その妙技に、初めて見る人は感心して見入った。途中で練る、伸ばす、切る作業を、見物人にもやってもらっていた。...素人が手を出しやすいのが、この技法の特徴の1つだ。

 薄く伸ばした生地は、新聞紙などに乗せて広げておき、少し乾かす。粘りが強いので、打ちたては切りにくいのだ。細く切った蕎麦は、かなり長くなるが、あまり短く切れてしまうことはない。見た目の繊細さが見事なものだ。

 出来上がった蕎麦を、公民館の台所でゆでて試食させてくれることもあった。お椀に入れた蕎麦に、市販のツユを軽くかけて、少量ずつ食べる。暗い廊下の途中で立ったまま食べたのだが、暗い中にもかすかな緑色がわかった。口に含むと、その風味の良さにびっくり。やはり本場ものの蕎麦の味に感心した。聞けば、その年は、実演のための粉は、打ち手の自家栽培のソバ粉を使ったのだという。ごもっともな味だった。...そんな珍しい体験は数回しかなかったが。これが「幻のそば」だったのかしら、と今になって思う。

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 富倉一帯は、土地が肥えているのだろう、山菜が豊富で味がいいのはそのためか、と私は思い込んでいた。当然、ソバの味も良かったのだろう。

 しかし今、村内を少しまわってみても、荒廃地ばかりが目立つ。秋の「新そば祭り」の時など、少し高いところに上がってぐるっと見回すことが多かったが、年々ススキの穂に覆われていく棚田を見渡すのが切ないほどだった。

 今回、5月中旬の「山菜祭り」では、同じところを見ても、ススキの穂ではなく、やわらかい新緑に塗られていた。美しい光景ながら、衰えていく山村の現実を見せつけられているような気がした。

 あの蕎麦は、もう本当に幻なのだろうか...。

 富倉では、「幻のそば」が評判になり、いくつかの食堂が出来た。それぞれ、自慢の味を競って、かなり繁盛しているように見えた。いくつか食べ歩いたが、微妙に違いがあるような気がしたものだった。それでも、他の地区にもヤマゴボウのツナギの蕎麦を提供する店が増えたからか、富倉でのそば屋商売は、少し衰えてきたように感じた。毎年の「新そば祭り」の味が、だんだん落ちてきたような気がして、心配だった。「かじか荘」は、昨年暮れに一時閉店してしまったのである。他にもいくつか、閉店した店があった...。

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 富倉そばの技術としては、ヤマゴボウをツナギとする打ち方は確かに大きな特色である。しかし、よく調べてみると、ヤマゴボウをツナギとする技法は、長野県内の各地に今も伝えられている。何カ所かでは名物の蕎麦として盛んに宣伝している。新潟県側の広い範囲にもあるという、いくつか食べたことがある。

 富倉ではこの他に、カタクリ粉を打ち粉に使うのは珍しい。富倉で全部の店とか人がやるわけではないようだが、カタクリ粉を使うのが当たり前になっている時期があったらしい。...このカタクリ粉は、ジャガイモのデンプンである。ジャガイモをすり下ろし、そこから濾過するようにしてデンプンを取り出す。これを蕎麦を打つ時に、打ち粉として使う。

 このやり方を、飯山市内の女性が、おかしい、とつぶやいていたのを思い出す。蕎麦の味に微妙な影響を与えたような気もするが、細かい実状はよくわからない。

 ジャガイモからデンプンを取り出した残りのものを、せんべいのように焼いて食べるのを、「新そば祭り」で味わったこともある。これを「いもがら」と呼ぶが...里芋類の太い葉柄を「いもがら」と呼んで食べる地方もかなりある。富倉では、これはまた違う呼び名があるという。こうした伝統が今も生きて伝えられているのは貴重なことだ。

 「ヒャット」の晩に民家で頂いた蕎麦、押し寿司、そして「やたら」の美味しかったことも含めて、この地方の独特な味が、衰弱しているらしいことに心が痛む。「幻のそば」が、本当に幻になってしまうのが残念である...。

2017年5月29日掲載

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