TOP2017年07月夏のオロシそば

 夏場になってきて、どこのそば屋も、味の維持には苦労していることだろう。そんな中で、6月中旬、偶然食べた「おろしそば」が割と美味しかったのに感心した。

 遅い昼食に何とかありつこうと、ごく庶民的な、住宅街にあるそば屋に入る。いつもすいていて、味は大したことはないのだが、安くて、大盛りなんかでも気軽に食べられるのがありがたい店である。その日も2時近くに行ったら、まだボツボツと客が入ってくる。けっこうファンがいるのだ。メニューを見ていて、目に止まったのが「おろしそば」。冬でも夏でも同じメニューらしかったが、気まぐれにオロシもいいか、と注文した。

 じきに出来てきた蕎麦は、大した味ではない。お椀には大根オロシが1かたまり盛り上げてあった。そこへそばツユを適宜注いでつけ汁にして、蕎麦を浸して食べる...。食べているうちに、平凡だと思った麺がなぜか、気分よくスルスルと食べられた。並の盛りだったが、この分だと大盛りのザルそばでも楽にいけそうな感じだった。...あれまあ、大根オロシの良さが、こんな時に生きているんだ、とびっくりした...。

 次の日、郊外へ出かけた時に入ったそば屋で。「おしぼりそば」が名物らしかったので、時期がちがうと思いながら、大盛りで注文した。蕎麦の味はまあまあだった、夏になってからの蕎麦としてはいい方だ。しぼり汁に味噌を溶かして、少し辛い大根汁で食べたのだが、思ったより味が乗ってこない。農村地帯とはいえ、聞くと、昨秋に収穫した大根はもう終わってしまい、買い求めた大根で絞り汁を作ったのだという。全体の味はまあまあなのだが、大根の汁の魅力は薄かった。時期の違いなのだろうか...。

 次の日には町場のそば屋で、意識して戸隠流の店に入った。メニューにあった「おろしそば」の中盛り蕎麦を注文した。なかなかよかった。食べていて、ふと、大根汁で蕎麦を食べて、とても美味しい、と書いた人のことを思い出した。

     ☆

 夏場になって、蕎麦の味が落ちてくる時期に、大根と一緒に食べた蕎麦を喜んだ「そば好き」の記録が残っている。徳川時代の半ばころ、天明6年(西暦1786年)に、伊勢内宮御師・荒木田久老(ひさおい)が書いた「五十槻園(いつきのその)旅日記」。善光寺東之門の旅屋に3月20日に到着、ここを本拠に周辺の檀家をまわり、8月5日に出立して北陸経由で帰国している。(『新編信濃史料叢書』第十巻の解題より。日月は当時の暦=旧暦なので、だいたい1カ月ほど遅くすると今の暦に近いものになるだろうか。)

 荒木田久老は、旅宿に滞在している間にも、蕎麦が到来した、と喜ぶ。「(3月28日)千右衛門よりそは到来、風味よろし、...」「(29日)泉平宿弥右衛門蕎麦粉壱袋持参、...」などと、毎日のように蕎麦、ソバ粉が届けられている。以前からそば好きが知れ渡っていたのだろう。

 5月に入り、いよいよ「在廻り」にかかる。つまり近郊の農村を巡回して、お札などを配り、その初穂料等を集めて歩く。伊勢信仰を広める役で、時には有力者の家に宿泊し、村役人等と杯をかわす。

 無類の蕎麦好きが知られていたようで、各地で蕎麦を食べたとびっしり記されている。善光寺門前や街道筋とちがって、農村部でも、遠くからの旅人、客人に蕎麦を振る舞っていた様子がうかがい知れる。数えてみると、5月には「そば」「そば切り」の記事は12ケ所に出てくる。

 6月1日には山田中村に止宿、「夕飯そば切 風味よろしく、みなみな大食」とある。裾花川流域から戸隠方面を回るのだが...5日に上楡木で「蕎麦切、風味よろし、」という。戸隠に近い上野村に止宿、「落着(おちつき)牡丹もち」、「夕飯うんとん(うどん)」である。6日「戸隠山登山、中院宿坊徳善院着、落着牡丹餅、」という。本院へ移動し、ごちそう(かたくり、岩たけ、重物=竹の子・薯蕷(じょよ=長芋)、盃、肴五種、蕎麦切り)を頂く。以下、12日に善光寺に戻るまでの間、11回は蕎麦を食べている。ほぼ毎日である。

 7月に入ると、北の方の農村部を回る。3日には檀田村で「昼飯そば、吸もの、酒」。押田村でも「吸もの酒、そば切」。西条村から田子村に止宿、「吸物さけ、夕飯そば切、」という。注釈のように書き添えてある文言。「今日蕎麦三度大根汁なし、一向食かたし、折右衛門方草餅、役元同断、宗助方落着、同断草餅三度甚迷惑也、今日之勤困窮至極なり」。三食とも蕎麦が出たが、大根汁がついてなかった、食べるのに苦労した、という。また落着に草餅が三度出た、はなはだ迷惑した、とも記す。

 4日には吉村で「吸もの酒、そは切」。上野村の止宿の折には、「檀家役人盃事、饗応心安ニより、此方より望ニ而、甚得意之食事大慶也、」と。

 5日は宇和野村から東条村問屋で「吸もの鷺、茶わんどせう(どじょう)、盃・松たけうめ・そば切=大根汁甚よろし、...」などと記す。2日前の蕎麦がよくなかったという話が伝わってきて、この日は大根汁を用意したのだろうか。

 この後も時々蕎麦を食べた記録があるが、味についてはあまり触れていない。どこの村でも、大根汁を用意するようになったのかもしれない。それにしても、各地でよく蕎麦を食べている...。

 この当時のソバ粉の状態がどうだったか、蕎麦の形や固さ、ツユの基本は、などがわかると面白いのだが、それらがわかる資料は少ない。

 粉で言えば、農村の水車が普及するのは、たぶん、もう少し後だろう。重い石臼を人力で回して上等なソバ粉を取り出すのは、かなり労力が必要だったはず。篩(ふるい)でふるうのも、目の細かい篩があると便利だったろうが、箱篩(はこぶるい)の普及もまだだったろう...。

 一方で、大根汁を賞賛しているからには、ツユは味噌味が中心だったかもしれない。あるいは、味噌だまりも活躍したはずだ...。醤油の普及は、ゆっくり進んだのだろうし、一般農民が自家でそば切りを食べるのには、もう少し年月が必要だったのではないか、と私は想像しているのだが。

     ☆

 荒木田久老が善光寺周辺で蕎麦を食べた季節は、初夏から盛夏にかけた時期なので、夏場の大根...恐らくオロシまたは絞り汁だろう...で食べるのは、冬場の味とは違ったはずだ。それが、夏でも味がよくなる、という話には、以前から疑問に思っていた。

 荒木田久老の記録を思い出しながら、長野市や近辺のそば屋で、オロシつきの蕎麦をいくつも食べてみた。実際に大根オロシを使ったら、相当な不味い蕎麦でも気持ちよく食べられる店があった。たまに、「うちはやってません」とオロシを断わる店があり、荒木田久老が書いた、「今日蕎麦三度大根汁なし、一向食かたし」という気分になったこともある。

 しかし「そば切=大根汁甚(はなはだ)よろし」という満足感が得られたそば屋が多かった。蕎麦自体が美味しい店では、大根オロシ、あるいは大根汁に浸した味わいが、かなりの幸福感も実感させてくれることがわかって、うれしかった。そば食の深さ、体全体への広がりが、オロシ無しよりも大きく感じられる...。

 蕎麦の魅力が、昔からこういう形で身に沁みるものとして、ずっと伝えられてきたのかしらん...。昔の記録、昔に聞いた食べ方は、現代にも通用する味わいが、かなりあるらしい、と教えられたような気がした。

 そもそもが、徳川時代の江戸で、信州にゆかりのあるお寺の蕎麦が有名になった評判記には、大根の「せん」を添えた、という記事もある。蕎麦に大根、という組み合わせは、早くから定着していたようなのだ。

 元禄年間(1700年前後)に信州更科を訪れた松尾芭蕉は、「身にしみて大根からし秋の風」と詠んだ。これはきっと蕎麦のことだろう、と言われている(芭蕉「更科紀行」)。

 徳川時代中期の文人太田蜀山人(南畝、1749〜1823)が中山道本山宿(現在塩尻市)で詠んだ狂歌「本山のそば名物と誰も知る 荷物はここにおろし大根」「そば切と木曽路の旅は山と坂 とかくからみ(空身/辛味)で上るのがよし」。明らかに蕎麦と大根オロシの組み合わせを表わしている。

 近年信州でも大流行の「激辛」とか、辛い「おしぼり」は、どこか、本気の味の定着ではなかったような気がする。かなり寒い時期なら、激辛の汁で体を温めるのもいい。しかし、辛い大根の産地で聞く「あまもっくら」の味わいは、当たり外れがあって、必ずしも蕎麦の味を引き立てる役を果たしていないものも目立つ。

 夏場でも蕎麦の味を引き立てる、大根オロシの魅力は、もっと研究されてもいいように思う。北信濃のそば屋には、夏でも「おろしそば」を食べられる店がかなりある。薬味の拡大版か、「オロシ」だけを追加出来るそば屋も目立つ。たまには、こうしたメニューで、味が落ちる夏そばを補助しながら味わうのもいいかしら、と感じたのだった。

2017年7月11日掲載

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