TOP2017年08月三たての神話は今

 先日、長野市内のそば屋で、表に「挽きたて 打ちたて 茹でたて」と書いた看板を見かけた。「旨い蕎麦」と言われる時に、よく登場する言葉だ。最近はあまり大声では聞かなくなったと思っていたので、久しぶりに見たような気がした。

 最近聞かなくなったらしい、というのは何か理由があるのだろうか。前にも少し書いたはずだが、そもそもこの「三たて」とは何だろう...。一種の神話かしら、と改めて考えることがある。

 一般的に言われるのは、「挽(ひ)きたて」つまり製粉したてがいい、というもの。次に「打ちたて」はそば切りに打ったらすぐに、という。三つめは「茹(ゆ)でたて」で、鍋で茹でたらすぐ食べるのがいい、とされる。たぶん、だいたいは当たっているのだろう。あるいは、この「三たて」で通すと、いわば無難な味になる、のかもしれない。

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 一方で、昔からの食べ方の中には、「三たて」とは言えないものもいくつかある。

 まず「挽きたて」(=製粉)では、冬を前に...小川の流れが凍る前に、水車で大量に挽いてしまったものだ、という話を、標高の高い地域でいくつか聞いたことがある。冬じゅう食べるソバ粉を、あらかじめ挽いておくのだ。寒い場所に保管しておけば、あまり風味は落ちないのだ、と聞いた。自分たちが食べるソバ粉だから、上手に扱ったのだろうが...。

 今も、早くに製粉するそば屋がある。収穫したばかりの玄ソバを大量に仕入れ、冬を前に1年じゅうの材料を全部製粉してしまう。冷凍保存しておくと、味はあまり変わらない、という。人気店で、また町の老舗でも聞いたことがある。こまかい手順などはわからないが、ずっと続けているようなので、メリットがあるのだろう。上手に扱うと、確かに味は維持できるらしい。

 玄ソバのまま、土蔵などに保管しておけば、味があまり劣化しないものだ、と栽培から製粉、手打ちもやる蕎麦好きの話を聞いたことがある。冷蔵庫が無かった時代でも、いい味を出そうといろいろ努力していたはずである。

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 「打ちたて」は、こねて伸ばして、切りたてを茹でるというもの。これも、基本的には、その通りだろう。

 しかし、よく考えてみれば、小さなそば屋の場合、職人あるいは店主が朝から打って切った蕎麦を、昼に片端から茹でて出す店が多いのではないか。「打ちたて」といっても、数時間経った蕎麦を使うのは、普通にあるはず。そして、味については...。

 ある時、知り合いになった老舗の内儀さんに、テストされたことがあった。伸ばして畳んであった生地を、注文を受けてから包丁で切り、ゆでて出してくれた。これとは別に、30分ほど前に切った蕎麦もゆでてくれて。どちらが好きですか、と問われた。使い分けるそば屋だった。個人的な好みで言えば、30分前に切った蕎麦の方が美味しく感じた。しかしここの内儀は、切り立てがいい、と暗に主張しているようだった。東京流の打ち方が全国的に普及してきた時期で、シャキッとした作りが、そば通にもてはやされた風潮を反映していたのかもしれない。

 しかし本当は、10年ほど前から、そば屋の中でも、切り立てより、30分くらい置いてから茹でた方がいい、と主張する人が出てきていた。ずっと前から、表向き言わないけれども、それは常識だ、とひそかに心得て実践しているそば屋は多かったにちがいない、と推測する...。

 昔から、切った蕎麦を一時保管するのには、農家であれば「もろぶた」(室蓋)がいい、とされてきた。「もろぶた」とは、味噌や醤油を作る際、米麹を発酵させる時に使う、浅い木箱のこと。蒸かした米(麦)を敷きつめ、麹菌を散らして、室(むろ、もろ=温室)に入れて発酵させる道具である。使い込んで黒ずんだ「もろぶた」に、刻んだ蕎麦を順序よく並べていくのに都合がいい大きさ。新聞紙などをかけておけば、湿気を適度に保って、短期間の保存に向いている...。そば祭りなどのイベントの時に、奥の方で切っては「もろぶた」に並べていくのを、何度も見せてもらった。農家の、収穫したばかりの新鮮な蕎麦だと、数時間の間は味が保てるような気がした...。

 「もろぶた」の影響か、町場のそば屋では一般的に「ふね」と呼ぶようだが、木製の平たい浅い箱がよく使われる。また、1人前ずつ小箱に入れて冷蔵庫で保管するなどは、どこでもやっていることだろう。

 最近気になるのは、打ってから少し時間が経ったものを茹でたらしい蕎麦。1つは、妙に腰が弱い蕎麦が出てくることがある。切れ切れになっていたり、フニャフニャした歯ざわりになってしまったり。これなら、「切り立て」にして欲しくなるのだが。

 一方で、妙に歯に固い蕎麦にもお目にかかるようになった。恐らく、伸ばす(延す)時に力が強くかかった場合で、時間が経つとこういう固さになるのだろうか、という感想だが...。特に、機械を使って伸ばした場合によく出てくる現象かしら、と気になっている。いくら工夫しても、修正がきかない場合もあるのかなあ、と。昼時の忙しく立ち働いている間に、生地の変化が生じてきて、茹でるタイミングが、仕上がりにも相当に影響してくるかしら、と。

 ごくたまに、客の注文を受けてから打ち始めて、素早く仕上げて提供する店がある。たまに行く店では、待ち時間が少し長いが、味はなかなかいい。確かに「打ちたて」で、それなりの良さを感じるものである。ただし、時間の効率はよくないので、商売としてはたいへんだろう、といつも同情したくなる...。

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 「茹でたて」も、実際の蕎麦を食べる場面では、いろいろなパターンがあった。

 昔の農村の「とうじそば」「おにかけ」などと呼ばれる食べ方では、茹でてから時間が経って食べることも多かったらしい。...囲炉裏にかけた鍋で蕎麦を茹でて、冷やして小さな玉状にとっておく。皆で火を囲んで食べる時は、大鍋に具だくさんの汁を作り、玉状の蕎麦をトウジカゴと呼ぶ小型の籠(かご)で温めて、お椀に盛って食べる。何杯もお代わりをして食べるのだが...。

 この時の蕎麦は、ゆでてから少し時間が経っているが、味はいろいろ。家族の夕飯としては、どんどん食べても間に合う食べ方、とも言える。普段は空腹を満たすために仕方なしに食べた、たまに雉(キジ)の肉なんかが入った汁だと、大ごちそうになったものだ、などと語る山村の老人の話を聞いたことがある。

 婚礼や葬式などの人寄せの時にも、汁でさっと温めるだけなので、次から次と提供出来る。なかなか合理的な食べ方のような気がする。

 この「とうじそば」は、最近県下各地で名物として復活されている。私も何度か食べたが、いつも割と美味だった。最近のものは、そば屋で注文すると、それから茹でて出すことが多いが、時には違和感を覚えることがある。私が最初に戸隠で食べた時は、時間の経った蕎麦が、茹でて水を切った大ザルに玉状に盛られていた。この蕎麦を箸で刺すと、そのまま玉状で持ち上げることが出来る。時間が経って、いくらか固まっている方が、扱いやすい。これが茹でたてだと、箸で刺しても持ち上がらない、するりとほどけてしまう...。同じことかどうかわからないが、昔の農村では、かなり太めの蕎麦が多かった。打ち方もお湯を使うのが普通だった。これだと、茹でてから少し時間が経っても、風味が落ちることは少なかったのではないか、とも思う。

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 お酒を飲んだ後に食べる蕎麦も、たいがいは茹でたてではない。古くは自宅の婚礼なんかの最後に出される場合も多かったらしい。また、料亭なんかの宴会の後で、仕上げに出されることは、今もよくみられる。

 酒盛りの後に、伸びたざるそばに残った冷や酒をかけてほぐし、これが旨いんだ、と自慢しながらすする酒好き、蕎麦好きがけっこう多い。お酒の後は、なぜか蕎麦を食べたくなる、とつぶやく年配者の話は時々聞く。以前は長野市の盛り場の料亭では、よく、そば屋から出前で取り寄せることが多かった。だいたい近所のそば屋からだったが、店はいくつかあって、評判が違った。有名なのは、もう店を閉じてしまった松信というそば屋。店で食べると、すごく感激するほどの味ではない。しかし、宴会の出前だと、あの店の蕎麦が一番ふさわしい、と訳知りの遊び人に教わったものである。

 そんな宴会の場で見せてもらったのは―、セイロに盛られた固まった蕎麦に、残っていた徳利の冷えたお酒をサラサラとかけて食べると旨いものだ、と。試してみると、確かに、いくらか食べやすくなる。最後の締めに、軽く蕎麦を掻き込むのもいいものだった...。

 町場の一般の家庭でも、不意の来客などに、近所から蕎麦を取り寄せることはけっこうあったらしい。いくらか伸びた蕎麦を、それなりに楽しむ人が多かったような気がしている。もともと、少し時間が経ってから食べるのを当然のこととした時代も割と長かったのかもしれない...。

 今は、一般の家庭への蕎麦の出前は、ずいぶん減ったように見受ける。出前の文化は、蕎麦の一つの特徴のような気がしているのだが。

 たまに、町場のヒマそうなそば屋で、バイクとか自転車に乗って配達に出かける姿を見かけることがある。こうした店はなぜか、安心して食べることが出来るような気がする。その地域の蕎麦好きに支えられて、ずっと商売をしてきた、その期待、支持に応えるために、大きな手抜きはしない、味を落とさない努力をしている、そんな印象を持つ店が多い。初めて入る店であっても、出前をしている店なら安心して、一定のレベルの味に出会えるような気がする。

 茹でて残った蕎麦を翌日に団子や焼餅に加工して食べた話もいくつか聞いたことがある。そうした再利用の話は、また機会があったら書いてみたい。

2017年8月21日掲載

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