【第5回】明治の通称地名が今に生きる長野市街

住居表示を適用しなかった長野旧市街

 「住居表示法」をご存じだろうか。正式には「住居表示に関する法律」である。昭和37年(1962)に施行されたので、すでに60年近い歳月が過ぎた。
 そもそも日本の住所の表示は長らく地番を代用しており、特に地番が錯雑した地域では、住所を見ながら現地へたどり着くのが困難な地域が多かった。「代用」と呼んだのは、たとえば欧米における「住所」は、おおむね地番とは別建てで設定されているからである。都市にはそれぞれの通りに名前が付いており、そこにハウスナンバーを振るのが一般的だ。地番はあくまで「不動産関係の財産番号」に過ぎない。
 日本では高度成長期の住宅急増に伴い、特に大都市圏の乱開発で土地の分筆がバラバラに行われたことで住所が複雑化した。そこで当局は、海外の事例も研究した結果、都市計画区域では道路や鉄道などに囲まれた整然たるエリアに仕切り直し、それぞれの街区(ブロック)ごとに「永久に変わらない番号」を振ることを決めた。「丁目・街区符号・住居番号」というセット(丸の内一丁目2番3号など)の新方式として、全国に広めたのである。
 しかしその副作用は大きく、特に城下町などでは小規模な町の統廃合が進んで多くの由緒ある地名が消えていった。長野県内では、たとえば上田市、松本市などは旧市街の広い範囲を「中央」とするなど、地点の特定機能を果たすべき地名の利便性は大きく損なわれている。
 地域によって住居表示の実施率には幅があるが、都道府県庁所在地の「旧市街」で住居表示を実施していない都市は少ない。しかも江戸期の町名の大半を残している都市といえば京都市と奈良市を筆頭に新潟市、岐阜市、鳥取市、松江市、そして長野市ぐらいのものである。

【図1】1:50,000地形図「長野」大正元年(1912)測図。善光寺の門前町の姿を色濃く残す市街構造だった頃。北東側には北国街道の街並みが細長く連なっている。権堂から東へ延びた先の「新地」は板塀の記号で囲まれている遊郭だ。全国的に見ても、県都の5万分の1地形図が最初に作成された時期としてはかなり遅い。もちろん長野電鉄も開通しておらず、市街の間近に水田が迫っていた。

入り乱れる大字、小字、通称、正式名称...

 なかでも長野市の住所システムは、全国でもかなり珍しいのではないだろうか。もちろん、地元の人には当たり前の方法だろうが、横浜市の出身で東京都の多摩地区に住んでいる私には実に新鮮だ。
 これを解くには、長野県の地方自治体の成立に遡る必要があるだろう。明治22年(1889)に町村制が施行された際、全国各地で基礎自治体たる「行政村」を作るために大合併が行われたが、長野県ではそれに先立って合併を済ませており、単独で町村制を施行したケースが多かった。具体的には、明治8年(1875)と翌9年を中心に、すでに大規模な合併が行われていたが、理由は山がちで小規模村が多かったため、地租改正や学校設置などに関わる事業費節減を図ったためなどとされる(旧長野県、旧筑摩県など、地域によって事情は異なる)。
 長野旧市街に見える「長野」「南長野」「西長野」という県都の地名を名乗る大字(おおあざ)は、他の県都にはまず見られないが、その早期合併の所産だ。大字長野はもともと善光寺領で、明治7年(1874)に北隣の箱清水(はこしみず)村と合併して長野町となった。南長野町は同11年に妻科(つましな)村が改称、西長野町は同年に腰村が改称してそれぞれ誕生している。地租改正に伴って地番が付いたのはこの時期であるから、のちに長野市となってからも「大字長野」や「大字南長野」「大字西長野」が地番区域だ。
 信濃毎日新聞社長野本社の住所は「大字南長野南県町(みなみあがたまち)657」だが、地番は南県町だけでなく「大字南長野」全体の通し番号なので、南県町に1から657まで番号が揃っているわけではない。JA長野県ビルは「大字南長野北石堂町1177」、長野県立大学後町キャンパス(旧後町小学校の跡地)が「大字南長野西後町(にしごちょう)614-1」など、それぞれの「町」の面積が小さいわりに全般的に数字が大きいのはそのためだ。
 住所の表示に広く通用しているこの「町」は、通称地名である。先ほどの後町キャンパスの「正式」な大字・小字の表示は「大字南長野字十念寺裏614-1」だが、地価の公示など不動産関係以外ではあまり見かけない。県庁前交差点近くの日本生命長野県庁前ビルも「町」で表示すれば「大字南長野南県町1040」なのだが、「正式」だと「大字南長野字徳永沖1040」となる。
 全国的に見て、小字(字)は地租改正時に便宜的に付けられたものも多く、歴史的地名ばかりとは限らない。極端な例では「字六号」「字庚耕地(かのえこうち)」のようにナンバリングなどで済ませた地域も珍しくなく、実際に住民が認識する地名とは乖離したケースも多い。

【図2】昭和初期の長野旧市街。「通称地名」が多く書き込まれた上に通りの名も記されている。左下に長野県庁と信濃毎日新聞社が見える。右下に見える「電車 ながの停留場」とあるのは長野電鉄の権堂駅。この図が改訂された前年の昭和3年(1928)に長野まで延伸された。金華堂書店「長野市中部地図」昭和4年(1929)改訂

由緒ある門前町の町名が息づく

 長野旧市街の場合は、江戸時代の門前町以来の「町」が、小字とは別に生きている。通用度も高いため、郵便番号もこれら"通称の町"ごとに振られている。大字長野では、表参道に沿った大門町をはじめ伊勢町、横町、東町、上西之門町など、江戸期から続く町が多く現役で用いられており、それらに混じって、栄町(旧阿弥陀院町)や長門町(旧天神宮町)、桜枝町(旧桜小路)のように明治7年(1874)に改称されたものも健在だ。
 通称町名は通りがよいため、大字名である長野や南長野などは省略することが多い。ただし、長野県庁はさすが"県のお役所の総本山"だからか、「大字南長野字幅下692番地2」と小字名も例外的に用いており、「大字南長野妻科692番地2」という通称町名表記はしていない。同じ「町内」にある妻科神社は「南長野妻科218」なのだが......。
 市役所が平成28年(2016)に改訂した「長野市の大字(町)区域名称(大字(町)の区域名称・住所名称等)」という文書によれば、「住所」の扱いを、
  ① 大字(町)の区域名
  ② 住所名称(住民登録)
  ③ 行政連絡区
――の3通りに分けている(①②③は引用者が付けた)。
 たとえば、長野市役所の所在地の①は「大字鶴賀」、②は「大字鶴賀緑町」、③は「緑町」である。この3種類は大正12年(1923)以降に合併して市内となったエリアごとに少しずつ扱いが異なり、複雑さに輪をかけている。
 しかし、中心部の地名を実質的に保存している現状は、少なくとも由緒ある地名を「中央」や「本町」などの素っ気ない地名に取り替えてしまった全国の都市の粗暴な対応と比べれば、はるかに歴史を重んじた誠意あるものであったと言える。デジタルの時代に、何通りもある表記をどうにかしなければ、という課題はあるだろうけれど......。

【図3】戦後の高度成長期の市街図にも通称地名が多く書き込まれている。大字の長野・西長野・南長野は大きなゴシック体で目立つ。赤いバス路線は破線が長野電鉄、実線は川中島自動車。この頃はまさにバスの黄金時代であった。

●関連リンク
長野市の大字(町)区域名称
長野市の系図

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