【第17回】辰野の「大八曲がり」という伝説

「山を避けた」のか「辰野に立ち寄った」のか

 長野県のちょうどまん中に位置する上伊那郡辰野町。天竜川に沿って広がる伊那谷では北の端に位置し、もちろん郡内の町村としても最北端だ。
 辰野駅にはJR中央本線が通り、飯田線もここから南下している。かつては特急「あずさ」が通過列車も含めてすべてここを通り、新宿方面から来た飯田線直通の急行「こまがね」は、ここで急行「アルプス」から切り離されるため数分間停車したものである。県内の南北交通を担った急行「天竜」も、諏訪方面からの編成と伊那谷からの編成をこの駅で連結して松本や長野へ向かうなど、交通の要衝であった。かつての時刻表によれば駅弁のマークも付いているから、停車時間に購入する人もいたのだろう。私は夜行「アルプス」で未明の辰野駅にたどり着き、飯田線の始発までストーブのついた待合室で過ごしたことがある。
 しかし、今の辰野駅は往時に比べればずっと深閑としている。特急がまったく姿を見せなくなったのは、昭和58年(1983)に岡谷~塩尻間に塩嶺トンネル(5,994m)が開通し、中央本線のメインルートがそちらに替わったからである。
 あらためて地図を見ると、辰野駅前後の中央本線旧ルートは実に屈曲が著しい。諏訪湖の北を回って岡谷駅から天竜川沿いに南南西に下って辰野駅に至り、そこから支流の横川川に沿って北上、善知鳥峠(うとうとうげ)を越えて塩尻へ下る。ちょうど勝弦(かっつる)山地の山裾を律儀になぞるような按配だ。塩尻から先は木曽谷を目指して再び南南西へ転じるから、図上に「Mの字」が描かれるような線形である。
 このM字の両端にあたる岡谷駅から塩尻駅(旧駅)までの直線距離は10.4kmであるが、旧線の距離は27.2kmと2.6倍に達した。素直に岡谷~塩尻間を結べば塩尻峠付近を通るところだが、それを避けたからだ。「山を避けた」と解釈するか、それとも「辰野に立ち寄った」とするかは簡単に判断できないが、巷間に流布されているのは伊那谷出身の代議士であった伊藤大八が地元のために辰野を経由させたという話だ。いわゆる「大八曲がり」(大八回り、とも)である。

1:200,000「長野」昭和11年修正+「高山」昭和12年修正+「甲府」昭和11年修正+「飯田」昭和12年修正

「辰野を通した」伊藤大八は伊那谷の恩人

 伊藤大八は安政5年(1858)に下伊那郡上殿岡村に生まれた。現在は飯田市内で、中央自動車道の飯田インター付近にあたる。若い頃に中江兆民の仏学塾で学び、『仏和語林』などの刊行に携わった。フランス人教官が指導する陸軍幼年学校では通訳を担当し、国土地理院の前身である陸地測量部にもととめている。明治23年(1890)には第1回衆議院選挙に出馬して当選、通算5期に及んだが、同31年には憲政党内閣で逓信省鉄道局長もつとめた〔1〕。
 大八が31歳で初当選した頃に走っていた県内の鉄道といえば、直江津からの信越本線が軽井沢で行き止まり、中央本線といえば新宿~八王子間の甲武鉄道のみで、県内はルートさえ決まっていなかった。
 諏訪方面から名古屋までのルートは木曽谷を通る「筑摩線」、伊那谷を通るちょうど現在の中央自動車道に重なる「清内路線」、伊那谷をさらに南下して三州街道で足助(あすけ)、挙母(ころも、現豊田市)を通る「三河線」の3案が検討されたが、明治26年(1893)に木曽谷経由の「筑摩線」に決まっている〔2〕。
 鉄道の誘致に失敗した伊那谷の住民の無念をはらすべく大八が運動し、せめて上伊那郡北端の辰野を経由させることに成功した、というのが「大八曲がり」伝説だ。『信州の鉄道碑ものがたり』(信濃毎日新聞社)によれば、現地視察を経て鉄道の技師長であった仙石貢らは辰野、善知鳥峠経由に反対したが、最終結論が出ないうちに議案書に大八が独断で「辰野経由」を記入させてしまったという〔3〕。
 しかしその一方で、塩尻峠付近の地質を見れば東西日本を分ける大地溝帯―フォッサマグナのまん中に位置し、南北方向に無数に断層群が走っていて破砕帯と大量の湧水が見込まれる。当時の技術でここにトンネルを掘削するのは到底無理であったという指摘もある。
 そもそも明治35年(1902)の貫通時に日本最長だった笹子トンネル(4,656m)の工事の際、削岩機やズリ運搬用電気機関車の導入などでようやく近代的工事を実現した。その段階で難しい地質にあえて挑むより、辰野経由の谷筋を選ぶ方が得策であったのは疑いようもない。工事費も大幅に節約できるとして、結局は辰野経由が採用されている。
 いずれにせよ上伊那郡の辰野(当時は伊那富村)を通ることが決まり、大八は伊那谷にとっての恩人となった。彼が没した翌年の昭和3年(1928)には、辰野駅を見下ろす下辰野公園に銅像が建てられたが、その裏面の銅板には「中央本線の初案は下諏訪より直ちに塩尻に至る。君論争し終(つい)に之をして辰野を経由せしむ。其の徳を不朽に表す」とその功績が刻まれている〔4〕。

1:200,000「長野」平成23年要部修正+「高山」平成24年要部修正

異常出水―三四半世紀を経ても難工事だったトンネル

 諏訪方面から岡谷、辰野、塩尻を経て木曽谷へと、M字を忠実にたどっていた中央本線も新宿から名古屋を直通する列車は大正時代には姿を消すが、岡谷~塩尻間の迂回部分を短絡する塩嶺トンネル(5,994m)経由の新線が開通するのは御茶ノ水~新宿~長野間が全通して77年後の昭和58年であった。
 トンネル建設技術がはるかに向上した当時でもやはり難工事で、塩嶺累層(第四紀の火砕流由来)からは毎分最大50トンという大出水もあって地上の渇水も引き起こし、途中1年以上にわたる掘削工事の中止を余儀なくされた。地元に対する補償措置のひとつが、みどり湖駅の新設であった〔5〕〔6〕。
 この区間の開通で岡谷~塩尻間は27.7kmから11.7kmと半分以下に短縮され、同時に勾配緩和と線形改良も実現、所要時間は約30分から10分程度に、現在の最速では7分程度と圧倒的に短縮している。
 つい令和3年(2021)8月の大雨では付近の中央本線と飯田線で何か所もの不通が発生したが(飯田線伊那新町~辰野間は10月12日現在も不通)、塩嶺トンネルがなければ影響はずっと深刻だったはずだ。

【写真左】掘削途中に地下水が大量に湧き出し、川のようになった塩嶺トンネル内部。塩尻川坑口から約1.5㎞掘り進んだ導坑で発生し、工事はストップした=昭和50年7月。【写真右】建設中の塩嶺トンネルの塩尻側坑口の航空写真。難工事で建設が予定通り進まず、開通が2年前後も遅れることになった。道路の立体交差付近がみどり湖駅建設地=昭和56年4月(写真はともに信濃毎日新聞社データベースより)

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〔1〕飯田市立図書館「伊東大八プロフィール」【リンク
〔2〕『日本国有鉄道百年史』第3巻 財団法人交通協力会 昭和50年第2版 p.649
〔3〕『信州の鉄道碑ものがたり』降幡利治 信濃毎日新聞社 2017年 p.118
〔4〕同 p.120
〔5〕『日本鉄道請負業史』昭和(後期)篇 社団法人日本鉄道建設業協会 平成2年 p.481
〔6〕第10話「トンネルと地下水 その2(中央本線塩嶺トンネル)」協同組合地盤環境技術研究センター理事 西田道夫【リンク

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