【第23回】信越国境越えの頂上は黒姫 旧柏原駅

【図1】北国街道の宿場町である柏原とその周辺。現在の北陸新幹線は右手に見える飯山経由で、信越国境の山越えは長いトンネルとなった。1:200,000「高田」昭和12年(1937)修正

「柏原」と書く駅は全国に4つもあった

 全国のJR線には「柏原」と書く駅が3つある。滋賀県米原市にあり、中山道の宿場町でもあった東海道本線の柏原(かしわばら)駅、大阪府柏原市にある関西本線(愛称・大和路線)の柏原(かしわら)駅、兵庫県丹波市にある福知山線の柏原(かいばら)駅で、いずれも明治期の開業だ。すべて読みが異なるためか、戦前は重複を避けるために国名を冠するなどして区別していた国鉄にあっては、珍しい事例かもしれない。
 これは同じ駅名の存在による混乱を防ぐ目的で、おおむね旅客・貨物の輸送量が激増していた大正期から行われた。たとえば大正4年(1915)9月11日に行われたのは、全国に4つあった中山駅をそれぞれ奥中山(東北本線=現IGRいわて銀河鉄道奥中山高原駅)、下総中山(総武本線)、中山寺(福知山線)に改称している(横浜線中山駅はそのまま)〔1〕。
 「柏原駅」は区別しないまま異例の駅名が今まで続いているのだが、昭和43年(1968)9月30日まではもう1つあった。しなの鉄道北しなの線(旧信越本線)、現在の黒姫駅である。読みは東海道本線と同じ「かしわばら」。「信濃柏原」などと改称しなかった理由はわからない。ちなみに最も開業が早いのは信越本線の柏原駅。黒姫山麓の観光開発が進んだ昭和43年(1968)10月、黒姫駅に改称された。
 信越本線は高崎~横川間の開業に始まるが、その後はもっぱら北側の工事始点である直江津から南下している。この町に注ぐ関川河口付近に線路を横付けし、そこからレール(当時はすべて輸入品)などの工事資材を陸揚げするためであった。最初の開業は明治19年(1886)の直江津~関山(現新潟県妙高市)間で、2年後の同21年5月1日には長野まで延伸された。この時に設置された柏原、牟礼、豊野、長野の4駅が長野県内で初の「停車場」である。

【図2】深く穿たれた大田切川の谷に建設された大築堤が上方に見える(坂口新田の文字の左下付近)。線路上にいくつも描かれた「屋根型」の記号は豪雪地帯ならではの「雪覆い」である。下端の田口駅は現妙高高原駅。1:50,000「妙高山」明治44年(1911)測図

急勾配の連続、大築堤による架橋

 信越国境を越える急勾配区間のうち柏原駅はその頂点に位置しており、標高は671.8m〔2〕と開業区間の中では最も高かった。それだけでなく日本の鉄道で「最高地点の駅」であったことはあまり知られていない。もっとも、わずか7か月後には軽井沢まで延伸され、同駅の939.1mに抜かれて1位の座を明け渡し、818.8mの御代田駅に次ぐ第3位に転落したので、知られていないのも無理もないだろう。ちなみに947.9mの沓掛駅(現中軽井沢)、955.7mの信濃追分駅は、いずれも後年の開業である。
 新潟県の新井駅(妙高市)から柏原駅までは、大半の区間が幹線規格としては最急の25パーミルがほぼ20kmも連続し、二本木と関山の両駅はスイッチバック式となった。中でも軽井沢~直江津間で「最大かつ最も困難な工事」〔3〕となったのは現妙高高原(当初は田口)駅から約4km北上した地点での大田切川を越える築堤である。
 妙高山のカルデラから流れ下ってくるこの急流が関川へ流れ込む地点は、深い谷を刻んでいるため古くから北国街道の難所で、冬期は雪が吹き溜まりとなって通行が非常に困難であったという〔4〕。
 そこに高さ33m、長さ80mというダムのような大築堤を築くことになった。現代ならすぐ西側を併走する上信越自動車道のようにアーチ(ローゼ橋)の高い橋を架ければ済むが、明治期はまだその技術がない。そこで選ばれたのが大築堤であった。つまり、線路は深い谷を埋めた土盛りの上を通し、川の水はその底辺に、延長94mのトンネルのような拱渠(きょうきょ=アーチ断面の水路)を設けて通す構造。しかし工事中に築堤が崩壊して16人が犠牲となる事故もあり、さらに当時この地方で流行していたコレラのために工事関係者が63人も亡くなっている。
 工事資材は直江津から敷設してきた線路によって順次運ばれていたが、築堤工事の難航で以南の工事が遅れたため、明治21年(1888)1月からは一部を未開通の横川(群馬県側)からつづら折りの碓氷峠を越えて運搬されたという。自動車のない時代の重量物の陸上輸送は現代人の想像を超える。

【図3】明治21年(1888)に開業した信越線(後の信越本線、現しなの鉄道北しなの線)柏原駅とその周辺。駅の西へ延びるのは黒姫山麓へ向かう森林軌道。1:50,000「戸隠」大正元年(1912)測図

昭和30年頃の柏原駅の様子を紹介した昭和31年(1956)5月6日の信濃毎日新聞コラム記事「駅」

俳人一茶の故郷は名前がいろいろある

 この区間の頂上に位置する柏原であるが、一帯が高原状なので実感は湧かない。それでも信濃川水系と関川水系の分水界が駅の付近を通ることだけは確かで、黒姫駅から東へ600mほどの明専寺が信濃川水系、同じく約300mの旧柏原小学校が関川水系という具合だろうか。その間のちょうど分水界らしきあたりに一茶記念館がある。
 その俳人小林一茶の生地がこの柏原だ。奉公のため江戸へ出てから、各地を廻った後で「これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺」と有名な句を発した後、晩年を過ごした土地でもあった。明治期には正岡子規が一茶を絶賛したことで再び注目され、その生地である柏原も脚光を浴びるようになる。明治43年(1910)には当時の柏原駅長が呼びかけて一茶俤堂(おもかげどう)を建立、後に俳諧寺と名付けられた。「俳諧寺一茶堂」として、一茶記念館の南側に面した小丸山公園の一角にある。
 柏原のすぐ北側に位置し、ナウマンゾウの発掘調査でも有名な野尻湖は、信濃の北端に位置することから「信濃尻湖」が転じたとの説もある。大正9年(1920)には外国人宣教師などが中心となって別荘地開発を行ったのが「神山国際村」で、賑やかになり過ぎた軽井沢から移ってきた人たちが静かな新天地をここに求めたという〔5〕。昭和11年(1936)に発行された鉄道旅行案内書『旅窓に学ぶ』〔6〕でも、柏原から先の車窓に「列車は北向して右窓野尻湖の水光をチラ/\望む。湖畔は風光明媚、多数の別荘が樹林の間に隠見する」と記している。
 上水内郡柏原村は昭和30年(1955)に、現在「アファンの森」で知られる大井を含む富士里村と合併して信濃村となり、さらに翌31年には東隣の古間村、北隣の信濃尻村を合わせて信濃町として現在に至っている。
 平成9年(1997)には上信越自動車道が開通して信濃町インターチェンジが設置されたが、東京在住の身には新宿区の信濃町(永井信濃守の屋敷に由来)をイメージしてしまう。いずれにせよ、地元の大字地名は「柏原」、駅名は「黒姫」、インターは「信濃町」と異なるので要注意である。

【図4】現在の信濃町柏原とその周辺。上信越自動車道が平成9年(1997)に開通、その後は北陸新幹線の開通とともに信越本線が「しなの鉄道北しなの線」となった。地理院地図(陰影起伏図透過率80%)令和4年(2022)2月10日ダウンロード

蒸気機関車の前に付き、柏原駅を出発する信越線のラッセル車。信越国境の信濃町は一茶が「雪五尺」と詠んだ豪雪地=信濃毎日新聞昭和37年1月21日(信毎データベースより)

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〔1〕『停車場変遷大事典』国鉄・JR編1巻 JTB 1998年
〔2〕『日本鉄道名所』5 中央線 上越線 信越線 小学館 1986年
〔3〕『日本国有鉄道百年史』第2巻 p.242
〔4〕『新版 角川日本地名大辞典』DVD-ROM版 2011年
〔5〕ありえない信濃町通信>信濃町の野尻湖国際村と須坂市、北信州で2拠点生活を送る翻訳者の暮らしとは?【リンク(ここをクリック)
〔6〕『旅窓に学ぶ』東日本篇 ダイヤモンド社 昭和11年(1936)p. 578

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