【第24回】「激変」した穂高岳付近の地形

【図1】大正元年に測量が行われたこの地域では初の地形図。元の持ち主が通ったと思われるルートなどが書き込まれている。1:50,000地形図「焼岳」大正元年測図

涸沢カールは大正時代になかった!?

 「カール」と聞けば、カレー味やチーズ味のスナック菓子を思い出す人は少なくないだろう。私も子どもの頃にこれが大好物だったが、平成29年(2017)に全国販売が終了し、販売エリアが西日本だけになってしまった...。
 ところで、自然地理用語としてのカールを学んだのは高校の地理の授業であったと思う。日本語では「圏谷(けんこく)」と呼ばれる。上から見ると半円形の丸い谷で、氷河がズリズリと滑りつつ山肌を削った結果だ。アイスクリームをスプーンですくった形と形容される。カール(Kar, Kahr, Kaar)は古高ドイツ語起源で、楕円の桶や盆といった意味だ。
 カールの実例として最も多く紹介されるのが、穂高岳(穂高連峰)の東側にある「涸沢(からさわ)カール」だろう。紅葉の時季にはたくさんのテントで賑わう名所だが、「ある地図」によれば、大正時代にはカールが存在しなかったかのようだ。もちろん昭和になって氷河が「急速解凍」したはずはない。
 「ある地図」が【図1】で、古書店で買ったものである。書き込みが多かったのでずいぶん安かった。測量は大正元年(1912)で、この地域では初めて作成された地形図である。図は全体に汚れが目立つことから、元の持ち主が実際に登山に携帯したものだと思われる。赤鉛筆による線や万年筆による書き込みもあり、裏面には吉田某の名前。
 よく見れば「奥穂高岳」の書き込みの北側には山小屋の印(現穂高岳山荘)が描かれ、その北側の三角点の傍らに印刷された「奥穂高嶽」は線で消して「唐沢岳」を記入している。その標高は3103.1mとあり、位置から判断しても現在の涸沢岳に間違いない。さらに三角点の北側のピークには「北穂高岳」を追記し、そのずっと北側に印刷された「北穂高嶽」を「南岳」に修正している。
 この山名の「ズレ」は陸地測量部(国土地理院の前身)による単なる誤りか、それとも時代による呼称の変化か私にはわからない。それはともかく、問題は地形である。涸沢岳(図の記入は唐沢岳)の東側に本来なら【図2・3】のように広がっているはずのカールは、少なくとも等高線を読む限り存在しない。記入された涸沢小屋にその吉田さんが宿泊したのかは不明だが、周囲の風景と等高線がまったく一致していないことには気づいただろう。もし等高線の通りの地形なら、森林に覆われた狭い谷のはずだから。

紅葉に染まる秋の涸沢カール。丸くえぐられた谷の地形の様子がわかる写真(信濃毎日新聞2005年10月3日掲載、信毎データベースより)

【図2】地上写真測量を併用して図1で描写された地形の不正確な部分を大幅に改良させた版。1:50,000地形図「上高地」昭和5年修正

「予測」も混じっていた明治・大正期の地図

 現在の地形図に描かれた等高線は、隣接した2枚の空中写真から実体視(立体視)しながら描くため、現実とかけ離れた地形を描くことはあり得ない。これに比べて明治・大正期の地形図の作り方は根本的に違う。「平板測量」と呼ばれるように地面に平板を置き、周囲を見通しながら骨組みを描いていく方法だ。
 空中写真による等高線描画が「面」で地形を捉えるとすれば、平板測量は複数の「点」で捉え、その点の間を実際の地形を観察しながら全貌を把握し、そこから按分して等高線を描く。このため測量者が近づけない深山幽谷では、しばしば「予測」で描かざるを得ない部分が出てくる。涸沢にカールがないのはそのためだ。
 ウェストンや小島烏水が北アルプスに登った時代からしばらく経ち、大正時代の終わり頃からは登山者が急増した。5万分の1「焼岳」は大正元年(1912)測図の最初の版が同4年に発行されたが、その次は昭和5年(1930)同6年発行なので16年も間が空いている。吉田さんがいつ登ったかは不明だが、山名が違っているという情報は何らかの形で得ていたかもしれない。
 いずれにせよ一般には「正確無比」と評価されていた陸地測量部の地形図が不正確ではまさに沽券(こけん)に関わる。そこで修正測量を行ったのが図2の昭和5年(1930)修正版である。国土地理院の技術資料〔1〕にはまさに上高地付近が取り上げられており、「この地形図は、大正元年に平板測量で作成されたものを、平板測量と地上写真測量の併用により昭和5年に修正したものである。この地上写真測量により、高山地域などの平板測量による図化が困難な地域で、地形表現が適当でなかったものが改められた」とあった。

【図3】3色刷になって涸沢カールの地形はよりわかりやすくなった。1:50,000地形図「上高地」昭和41年資料修正

【図5】現在の涸沢カール付近の地理院地図(陰影起伏図透過率70%)。印影によってカールの地形が分かりやすい。令和4年2月28日ダウンロード

ブームによって地形図の名前も変わる

 また山名の修正について『陸地測量部沿革誌』(終編)には、次のようにある。「日本北アルプス地区修正測図当地区は我国に於ける最高地区にして登山家の殿堂視する所なり〔中略〕対山岳思想の今日の如くならさる時代の測図に係るを以て奥穂高嶽の標高を逸し常念岳の標高には物議を醸す等のことあり今茲(ここ)に山岳図発行を機とし徹底的完全なる修正を企図し上記標高に関しては三角科の協力に依り地形測図には写真測量を応用し作業延日数三三三日を以て此の険難地域二五二八方粁〔平方キロ〕の修正測図を完了することを得たり」
 ちなみに常念岳には三角点はなく標高点で、大正元年測図版では「2757m」となっていたのを「2857.43m」と約100m高く修正した。等高線もそれに見合う混み方に改められている〔2〕。それにしてもちょうど100mのズレというのは怪しい。おそらく単純ミスが原図に記され、等高線もそれに合わせて按分して引かれた証拠ではないだろうか。
 ついでながら、図名が昭和5年(1930)修正の際に「焼岳」から「上高地」と変更されたのは、やはり上に引用した通り「登山家の殿堂」としての上高地の知名度の高さゆえだろう。戦後のレジャーブームが到来した昭和30年代になると、地形図の発行枚数は急増する。地形図の売り上げランキングでは、2万5千分の1が整備されるまで5万分の1「上高地」は長らくトップの座を占めていた。昭和38年(1963)の国土地理院の調べによれば、5万4,735枚と第2位「秦野」の4万6,626枚を引き離してのダントツである〔3〕。3色刷となった図3の「昭和41年資料修正」版もやはり年に5万枚以上は売れたに違いない。
 5万分の1地形図はこの頃に毎年600万枚前後が売れていたが、昭和56年度(1981)に910万枚のピークを迎えた後は減少に転じ、今や地図はパソコンやスマホ画面で見るのが当たり前の時代となり、平成28年度(2016)には47万枚〔4〕と、ピークの約20分の1にまで激減した。紙地図マニアの身としては寂しい限りである。

【図4】穂高岳・槍ヶ岳など北アルプス南部とその周辺。平成17年(2005)に安曇村が合併、涸沢カールも松本市内となった。1:200,000地勢図「高山」昭和63年編集

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〔1〕国土地理院技術資料C・1-No. 132『地形図集-黎明期の地形図より現在の地形図まで-』財団法人日本地図センター発行 昭和59年(1984)p. 64
〔2〕『陸地測量部沿革誌』終編 p. 22 昭和23年(1948)地理調査所〔奥付がないため発行機関は推定〕
〔3〕『五万分の一地図』井上英二 中公新書 昭和41年(1966)p. 129
〔4〕朝日新聞デジタル>紙地図、売り上げ20分の1に スマホ猛威、取次も倒産【リンク ここをクリック

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