【第26回】「トンネル王」飯田線の最密集地域 泰阜村

長野、静岡、愛知3県境の深い山あいを曲りくねって流れる天竜川。川の右側(左岸)に飯田線のトンネル2カ所が見える=昭和33年10月(信濃毎日新聞データベース収録写真)

天竜川の電源開発のために建設

 JR飯田線は愛知県の豊橋駅から長野県の辰野駅を結ぶ195.8kmの長いローカル線である。大都市圏でないにもかかわらず途中駅が92か所と非常に多い。似たような距離の名古屋~松本間(188.1km)の41と比べれば2倍以上だ。これは飯田線の前身が私鉄、それも電気鉄道であったことに関係している。
 その私鉄とは豊川鉄道(豊橋〔1〕~大海(おおみ)〔2〕)、鳳来寺鉄道(大海~三河川合)、三信鉄道(三河川合~天竜峡)、伊那電気鉄道(天竜峡~辰野)の4社で、太平洋戦争中の昭和18年(1943)に国が買収して飯田線になった(豊川鉄道と鳳来寺鉄道は当初は蒸気鉄道)。この時期の買収によく理由付けされた「戦略上重要な路線」というよりは、本来は国が建設すべき路線という位置づけでこの機に国有化した色彩が濃い。
 4社のうち最も地形が険しい区間が愛知・静岡・長野の3県にまたがって走る三信鉄道だ。深山幽谷を縫う電源開発のための鉄道である。戦前の日本は水力発電の依存率が高く、特に電力需要が急増した大正に入ってからは長野県内でも各所で電源開発が進められていた。
 水力発電には相応の水量と高度差をもつ河川が必須であることから、結果的に轟々たる急流となる。そこにダムや導水路などの発電施設を建設する資材を運搬するには、道路が未整備な当時にあっては峡谷に鉄道を敷設するしかなかった。三信鉄道は、起終点で接続する鳳来寺鉄道と伊那電気鉄道、それに名古屋を本拠地とする東邦電力などが設立したものである。
 資材輸送だけでなく、天竜川にダムを建設することで不可能となる木材の筏(いかだ)流しの補償的な輸送需要も見込んだものであった。これに加えて伊那谷と三河地方の直結による旅客の利便性が高まり、地域間の短距離旅客輸送についても小さな集落ごとに駅を設けて配慮した。駅の多さもその反映だろう。

【図1】「秘境駅」として知られる飯田線の田本駅から門島間は1駅間のトンネルの数が線内最多。地理院地図(陰影起伏図・透過率80%)令和4年(2022)4月27日ダウンロード【クリックで拡大】

穿つトンネル...138個 全国屈指の多さ

 飯田線はトンネルの多さでは全国屈指で、全線に138か所もある。これは総距離640km、京都~幡生(下関市)間の山陰本線の175に次いで2番目(地形図で数えたので多少の誤差はあるかもしれない)。しかも同線の3分の1に満たない距離でこの数であるから、トンネルの頻度としては群を抜いている。ついでながら第3位は四国の土讃線(多度津~窪川、全長198.7km)で124か所〔4〕。
 トンネルが多いと言っても、伊那電気鉄道の区間はわずか2か所のみ(共に飯田市内)なのだが、全138か所のトンネルのうち実に133か所が三信鉄道の区間(三河川合~天竜峡間)に集中しているから、その地形の険しさたるや「別格」である。しかもこの数は戦後に佐久間ダムの建設に伴って佐久間駅付近から大嵐(おおぞれ)駅までの間を路線変更した後の数。それ以前は同ダム湖に水没した区間を走り、さらに多い171にのぼった。
 トンネルの多くは主に天竜川左岸側の急斜面を穿つもので、測量でさえ非常に困難であった。このため、三信鉄道は深山幽谷を測るエキスパートとして知られた北海道の川村カ子ト(かねと)率いる測量隊を招聘した。アイヌ人であったことから現場では露骨な差別も受けたというが見事に完遂、この人なしでこの路線は実現しなかったとさえ言われる。
 もし現代工法でこの区間を施工するのであれば、長いトンネルで一気に地下鉄のようなルートを実現させたに違いない。当時はそれが難しく、トンネルは断崖絶壁を縫う100m前後の短いものも含めて1針ずつ縫い込むように連続して建設された。

【図2】三信鉄道時代、天竜峡方面から門島まで開通、泰阜ダムが竣工する2年前の地形図。記載はないが「矢倉の滝」などの難所がまだ存在した。1:50,000「時又」昭和8年要部修正【クリックで拡大】

鉄道以前は水運で発展 今は「秘境駅」の宝庫

 市町村別でトンネルを数えると、最も多いのは泰阜(やすおか)村の52で、次が南隣の天龍村の31。2村合わせれば全体の6割を占める。駅間で最も多いのはその泰阜村の田本~門島(かどしま)間の15か所で、全部を挙げてみよう(T=トンネル)〔5〕。なお冒頭の数字は豊橋方からのトンネルの通し番号である。

98田本第三T(30.18m) 99大恵租第一T(208.20m) 100大恵租第二T(329.92m) 101大恵租第三T(112.85m) 102猪牙第一T(211.95m) 103猪牙第二T(99.58m) 104猪牙第三(59.95m) 105七久保第二T(66.79m) 106七久保第三T(26.15m) 107明島第一T(76.62m) 108明島第二T(29.17m) 109明島第三T(35.20m) 110明島第四T(29.17m) 111鰐渕第一T(71.41m) 112鰐渕第二T(142.83m)

 田本~門島間は3,690mなので1kmあたり4つの勘定で、ご覧の通り100mに満たないものが9つも混じっている。門島駅のすぐ北側には矢作水力(元天竜川電力)が昭和10年(1935)に泰阜ダムを建設、これにより伝統ある天竜川の筏流しは消えたが、このダムの上流側にはかつて「唐傘谷」や「矢倉の滝」などの難所が存在した。また、同ダムは上流の河床上昇を引き起こしたとされ、洪水被害を甚大とする原因となってきた。
 登山家・随筆家として知られる小島烏水は大正3年(1914)7月にこの川下りを経験し、紀行文『天竜川』にこの難所を以下のように書き留めている。あまりに危険な場所なので乗客は一旦全員降ろされ、数100mも河原を歩かされて下流側で待機しているところへ、見事な櫂さばきで矢倉の滝を豪快に下ってきた船の様子だ〔6〕。

暫らく停まつて呼吸を入れてゐた船は、こつちを目がけて、走つて来る、難所中の難所といふ、やぐらの瀑へかゝつて来たときは、波から三尺ばかり船体が乗り出したと思ふと、水煙が噴水の柱のやうに立つて、船頭の黒い立像が、水沫しぶきの中から二体浮び出た、火影に映る消防夫の姿のやうに。

 その難所のすぐ下流側に位置する門島村は、上流側で一旦揚陸した荷物を再び積み込む河港として発展したという〔7〕。信濃側の荷物はここからはるばる下って河口の遠州掛塚(現静岡県磐田市)まで下り、筏に組まれた木材などはそこから船に積み替えて江戸まで運ばれた。
 飯田線は天竜川に面した断崖絶壁に多数のトンネルを穿って通じており、それだけに現在も多雨期などの災害の多発が悩ましい状況が続く。一方、それ以前からの遠州街道などは峡谷を避けて台地の上をたどっている。このため集落はいずれも台地上に位置し、駅との標高差が大きい。
 顕著なのが田本駅で、駅が345.6mに対して田本の集落は500m前後に点在している。集落までの距離は短いものの駅から通じる急坂はきつそうだ。自動車は入れず徒歩で20分ほどかかる〔8〕というが、私ならおそらく30分はかかる。1日あたり平均乗車人数が1人前後で推移してきた田本駅だが、この「秘境駅」ぶりが有名になって、最近は訪れる人が増えてきたという。

【図3】天竜川の縦断面と飯田線の関係。秘境駅・田本の集落はこの図をはみ出した上方の標高500m内外に広がっている。天竜川の断面は地理院地図の「断面図」モードによって作成。ただし泰阜ダム竣工以前の旧断面は今尾による大雑把な想像図

「秘境駅」として人気のある田本駅(左奥)に到着した「飯田線80周年秘境駅号」から降り立ち、すぐ南側のトンネル出入り口の上部から列車や周囲の風景を撮影する乗客たち=平成29年8月(信濃毎日新聞データベース収録写真)


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〔1〕豊橋駅は買収時の改称で、それ以前は吉田駅と称していた(国鉄は最初から豊橋駅)。
〔2〕大海駅は買収時の改称で、それ以前は長篠駅と称していた。
〔3〕現在の「地理院地図」で数えたもの。トンネル数の異なる複線区間(玉造温泉~来待間)では多い下り線の方を採用した。
〔4〕JR四国資料(トンネル表)
〔5〕静岡鉄道管理局施設部保線課「線路図」
〔6〕小島烏水「天竜川」大正3年7月 青空文庫(底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版)1976(昭和51)年8月1日初版発行【ここからリンク
〔7〕『角川日本地名大辞典』DVD-ROM版 KADOKAWA 
〔8〕増補改訂版『長野県鉄道全駅』信濃毎日新聞社出版部 2011年 p. 228

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