【第38回】木曽の桟と寝覚の床
芭蕉も詠んだ中山道木曽谷の難所
「木曽の桟(かけはし)」は中山道―木曽街道六十九次の難所として知られていた。塩尻方面から中山道を南下して木曽路に入り、信濃川水系と木曽川水系を分ける中央分水界の鳥居峠を越えて福島の少し先にある。桟というのは絶壁に設置した棚のような形状の構造物で、急峻な地形で足場のない箇所に設けて通行できるようにしたものだ。
元禄10年(1697)に大坂で刊行された地誌書『国花万葉記』でも当地の名所として〈木曽の掛橋、あげ松と云宿より福島へ越る間也。則(すなわち)掛橋と云里(さと)有。山の岨(そま)に渡したる橋也〉と紹介している〔1〕。ここで言う「掛橋という里」は木曽町との境界近くにある上松町の桟地区だ。松尾芭蕉も『更科紀行』の中で「かけはしや命をからむ蔦かづら」の句を遺している。
昭和6年(1931)修正の【図2】では最北端に「桟」の文字が見えるが、これは地名の文字よりひと回り小さいので施設名としての桟らしい。この図が適用した「大正6年地形図図式」には、欄干部分が片方にしかない「桟」という地形図の記号もあったはずだが、残念ながらここには適用されていない。
桟の区間は長く幹線の国道19号として使われてきたが、平成26年(2014)3月、右岸にバイパスが開通、旧道となった。1960年代の道路拡張で整備した橋の2本の支柱の奥には、江戸から明治期に築かれた石積みが今も残っている。
木曽川の渓谷に沿って... 中央西線の車窓風景
木曽谷には中央本線(西線)が通り、上松駅を挟む区間(須原―木曽福島間)は明治43年(1910)年に開通している。昭和戦前期の貴重な鉄道旅行案内である『旅窓に学ぶ』〔2〕では、このあたりの車窓を次のように描写している。
木曽福島停車場を発車して木曽川左岸の山腹、崖の上を南に進み、やがて一隧道〔中平隧道167m=引用者注〕を潜り木曽峡の絶勝地を走る。右窓は御嶽(おんたけ)の高峰、左窓は木曽駒ヶ岳の峻嶺、いづれも海抜三千米級の威容を雲際に聳立(しょうりつ)し、見る限りの森林と共に木曽渓谷の幽玄な環境を永久に形作つてゐる。
木曽谷では御嶽山は滅多に見えないが、当時の筆者がもし実見したとすれば王滝川が合流するところで、私が何度かここを通過した際には背の高い木に阻まれて、もしくは天気のせいかもしれないが、見た覚えがない。あたかもこの付近の旧中山道には御嶽山遙拝所があるから、少し高い場所からであれば見えたのかもしれない。その王滝川には昭和43年(1968)に水力発電用の木曽ダムが竣工した。
やがて名所指導標の立つてゐる往古の木曽桟橋(かけはし)上の断崖を過ぎ、隧道を通り、新茶屋川橋梁を渡る。橋脚の高さ二十二米余、見下せば木曽上流の碧潭深沈(へきたんしんちん)、中仙道の一路白々と山脚を繞(めぐ)る。程なく上松町の甍次第に見え初め、間もなく上松停車場を過ぎ、有名な峡中第一の名所、寝覚の床を見下す左岸の断崖上を行く。
ここの「隧道を通り」は当時の長さ108mの桟トンネルのことである。現在は複線化の際に掘られた7倍近い長さの桟トンネル(710m)を通過するので、その分だけ川面は見られない。線路の改良はスピードアップや輸送力増強のために行われるのだが、その裏返しで「絶景区間」は減少していく。「新茶屋川橋梁」は新しくなった茶屋川橋梁ということではなく、新茶屋という中山道の茶屋にちなむ地名だ。
【図2】には木曽川の対岸を併走する軌道が描かれているが、これが有名な木曽森林鉄道である。そこから分かれて上松駅へ向かう線路が渡る木曽川の橋が「鬼淵鉄橋」と呼ばれる曲弦プラットトラス橋で、横河橋梁による大正3年(1914)の竣工。明治期のこの種の橋は大半が輸入桁であり、現存する国産橋梁では最古の存在だ〔3〕。森林鉄道が昭和50年(1975)にこの区間を廃止した後は道路橋として使われてきたが、老朽化のためすぐ下流側に新しい道路橋が完成。これに伴って撤去予定であった旧橋は、地元の運動が実って保存されることとなった。車窓からでもよく見える。
上松駅の西側に見えるトンカチ形(由来は「鳶口」だそうだが......)の記号は「材料貯蓄場」で鉱石や土砂の置き場などに用いられてきたが、ここの場合は貯木場だ。ヒノキの鉄道輸送が盛んな頃は一帯の広大なエリアから森林鉄道によって集材された丸太が山のように積まれていた。上松駅での貨物取扱いは昭和59年(1984)に廃止。さらに、貯木場は平成21年(2009)は町内の木曽川河川敷に移り、駅西側の跡地は町内企業の工場や老人福祉施設になった。
自然の石切場のような風景と見下ろす鉄橋
上松駅を過ぎると線路は比較的平坦な段丘上を通るので険しい地形の印象はないが、川面との高度差は約40mあるので車窓からもこの名所「寝覚の床」を俯瞰できる。古くから知られるこの名所は、なんと言っても巨大な花崗岩とその白さが印象的だ。しかも石の特性で四角く割れるため、まるで自然の石切場のようでもある。これがもし玄武岩であれば六角柱に割れて特有の柱状節理となるところだ。
前述の木曽ダムができる以前はもっと水面が高く、これほど石切場のような景観ではなかったらしい。このため今では花崗岩の各所に見える甌穴(ポットホール)が、現在の川面よりかなり高い面で見られるのもここの特徴だ。甌穴とは、河川の流れが岩に窪みを生じさせ、そこにたまたま入った小石が渦のような動きに翻弄される中で周囲を削り、窪みをさらに深く削り込んだ結果、丸い穴を作り上げたものである。
車窓からの眺めが良い場所は臨川寺橋梁(264m)〔4〕で、木曽川が侵食した急崖の中腹に橋脚が立っているため、桟のような橋と言ってもいい。この前後は複線化の際に半径300mのカーブを600mに緩和するため臨川寺橋梁の架け替えに加えて寝覚トンネルの新設(215m。旧トンネルは)、滑川橋梁の架け替えなど路線変更が行われている。それでも変更は寝覚の床がちゃんと見えるように配慮したのだろうか。
橋梁の名になった臨川寺はすぐ近くで、寛永元年(1624)に尾張藩祖の徳川義直が木曽代官の山村良勝に命じて建てさせたという。巨岩累々の川原近くには「浦島堂」があるが、当地の浦島太郎伝説によれば、目覚めたところがここらしい。かつては通過する列車内では案内放送が入って徐行もしたが、今では瞬く間に通り過ぎてしまう。もう少しゆっくり走ってもらいたい気もするが、この「天然の石庭」をゆっくり鑑賞したければ途中下車してみよう。上松駅から臨川寺までは中山道の旧道経由で2km足らずである。
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〔1〕『新版 角川日本地名大辞典』DVD-ROM KADOKAWA 2011年「木曽の桟」
〔2〕『旅窓に学ぶ』東日本篇 ダイヤモンド社 昭和13年(1938)p.207
〔3〕『「林業遺産」に選定された木曾森林鉄道関連の遺構群』(林野庁)【ここからリンク】
〔4〕『日本鉄道請負業史』昭和(後期)篇 日本鉄道建設業協会 平成2年 p.479