【第39回】大町と大糸線

【図1】大町とその周辺。信濃鉄道は国有化されて大糸南線となった。信濃大町以北は鉄道省が建設、南小谷を経て中土駅まで延伸されている。大町市街から西へ延びるのは電源開発用の電気軌道で、地元住民や登山者なども便乗させた。1:200,000「高山」昭和12年修正

東日本に多い「大町」の地名

 安曇野の北端に位置する長野県大町市。「大町」という地名は全国に広く分布しているが、密度としてはどちらかといえば東日本が高い。特に集まっているのは東北から北関東にかけてだが、長野県内では大町市以外、大字レベル以上では1か所のみだ。場所は村山橋の少し下流側、千曲川の左岸に位置する長野市大字大町である。ただしこちらの歴史は比較的新しく、明治8年(1875)に上町と栗田町が合併した際に長沼大町と命名されたものだ。由来は「村勢が大きくなったことを表すことと将来の繁栄を願って命名された」〔1〕という。
 これに対して大町市の方は歴史が長い。古代から仁科氏が領していた地域にあったため「仁科大町」と呼ばれたという記録がある。もともと「大町」という地名は町の中でも主要な区域に命名される傾向があり、たとえば青森市大町(江戸期~昭和43年)は旧市街の中心で明治以降は金融街として発達してきたし、秋田市の大町(江戸期~現在)は江戸期に久保田城下町の中でも最大の呉服屋が店を構えており、明治期には17町を管轄とする戸長(こちょう)役場が置かれた。
 長野県の大町も明治期からは北安曇郡役所が置かれるなど、一帯の中心都市として発展したが、同時に糸魚川街道(現国道147・148号、千国街道、松本街道)の宿駅としての歴史があり、旧市街に今も通称地名として存在する三日町、五日町、八日町、九日町などの町名が示すように市場町の側面もあった。その大町が鉄道の時代を迎え、松本を結ぶ路線が構想されたのは必然と言えるだろう。

当初は大糸線の前身・信濃鉄道の起点だった北松本駅(開業当時は松本市駅)の旧駅舎に残っていた社章の一部。四つの「ナノ」で「しなの」を表した=1978年7月(信濃毎日新聞社保存写真)

【図2】信濃大町まで開通した段階の信濃鉄道と大町市街。中学校(現大町高校)や北安曇郡役所(楕円の記号)も見える。高瀬川西側の仏崎駅(大正6年廃止)は初代信濃大町駅。1:50,000「大町」大正元年測図+「池田」大正5年鉄道補入

横切る川には国払い下げの橋梁を架ける

 大糸線の前身は私鉄の信濃鉄道である(現しなの鉄道とは無関係)。明治40年(1907)の3年後にあたる同43年12月に軽便鉄道の敷設を申請、翌44年4月5日に免許状を得た。『官報』〔2〕によれば、起業者は若王子文健他16人で資本金60万円。軌間は3フィート6インチ(1,067mm=現在と同じ)、松本~大町間の19マイル40チェーン(31.38km)である。現在の松本~信濃大町間は35.1kmだから3.7kmほど短かった。これは高瀬川の左岸側に位置する池田町を通る予定だったが、「地価が高い」などの理由で経由地を一部変更した〔3〕ことが影響したらしい。
 大正初年の不況に重なって出資が思うように集まらないなどの困難を経て松本市(現北松本)~豊科間が開通したのは大正4年(1915)1月6日であった。その後は同年6月1日に柏矢町まで、7月15日に穂高まで、8月8日に有明まで、9月29日に池田松川(現信濃松川、池田町の対岸)までという具合に数キロずつ延伸して信濃大町駅に達したのは同年11月2日のことであった。ただし、この終着駅は高瀬川の西側の仮駅(後の仏崎駅、大正6年廃止)で、ここに橋梁を架けて現在の信濃大町駅に達したのは大正5年(1916)7月5日のことである。6回目の延伸であった。
 線路を建設する私鉄にとって頭が痛かったのが橋梁の費用だが、そこでしばしば利用されたのが鉄道院(国鉄)の橋桁の払い下げだ。北アルプスから流れ下る川をい渡りながら行く信濃鉄道でも、穂高川橋梁には東海道本線の原野谷川橋梁(静岡県)の100フィートのポニートラス桁と天竜川橋梁に用いられていた200フィートのダブルワーレントラス(箱根登山鉄道早川橋梁と同型)が用いられたと記録にある。(改行)
 高瀬川橋梁の初代橋梁がどこかの橋桁を流用したものか、奮発して新設したのかは手元の資料ではわからない。穂高川橋梁は老朽化のため、国有化後の昭和23年(1948)に常磐線阿武隈川橋梁のトラスに架け替えられた〔4〕が、高瀬川橋梁も昭和33年(1958)に筑豊本線の遠賀川(おんががわ)橋梁で長らく使われた英国パテントシャフト製のトラス桁8連に置き換えられている。こちらは九州鉄道時代の明治39年(1906)の銘板が付いた年代物で、最近になって腐食や欠損箇所を補修して現役として今も列車を支えている〔5〕。

穂高―有明間の穂高川橋梁を渡る電気機関車牽引の貨物列車=1985年2月(小西純一さん撮影)

【図3】平成期の大町市街。東洋紡績(現東洋紡)と昭和電工(現レゾナック)の大工場が目立つ。1:50,000「大町」平成14年修正+「信濃池田」平成5年要部修正

豊富な電力を生かした大工場進出で発展

 松本~信濃大町間が全通した翌年の大正6年(1917)の時刻表によれば、松本から信濃大町まで2時間6分ほどで、上り列車はちょうど2時間というダイヤであった。1日8往復で、このうち3往復が有明折り返しである。建設当初は苦難続きの信濃鉄道であったが、開通後は第一次世界大戦の「特需」に刺激された好景気が続いて経営は一気に好転した〔6〕。(改行)
 その後は県内に急増していた水力発電所の余剰電力を安価に利用して電化を進め、大正15年(1926)1月8日に電気運転を開始している。同年11月15日改正ダイヤ〔7〕によれば、旅客列車は大正6年(1917)の倍に近い14往復。所要時間は上下とも半分近くの65~69分程度と大いに便利になった。同区間は現在の普通列車でも55~60分なので、あまり遜色ない。
 とはいえ、この1世紀の間で自動車交通はめざましく発達し「クルマ社会」へ大きく変貌している。信濃大町駅の乗車人数も、手元の資料〔8〕にある昭和57年(1982)頃の2,784人から令和元年(2019)1,234人〔9〕と半減以下となった。高速バスや自家用車へのシフトもあるが、北陸新幹線の開業で東京~信濃大町間や、黒部ダム入り口の扇沢までの最短コースが長野駅からのバス便になった影響も大きい。さらに新型コロナ感染症による乗客減が響いて、令和4年(2022)のデータではさらに996人〔10〕まで落ち込んだ。
 高瀬川上流の水力発電が大正期から発達したことで、大量に電気を消費する工場の進出が促進され、昭和9年(1934)には昭和アルミニウム(後の昭和電工、現レゾナック)が稼働を開始するが、信濃鉄道も工場門前にその名も「昭和」という駅を新設した(同12年の国有化に際して南大町と改称)。さらに信濃大町駅前には昭和12年(1937)に大町紡績が進出、後に東洋紡績(現東洋紡、進出時は大町紡績)となって多くの雇用を生んだ。その後は平成11年(1999)に撤退して跡地はショッピングセンターなどとなっている。
 2つの大工場へは大糸線から引込線(専用線)が分岐して貨物輸送が行われていたが、昭和58年(1983)に行われた国鉄の鉄道貨物輸送の「合理化」の影響で翌59年には信濃大町駅での貨物の取扱いも停止となった。(改行)
 なかなか厳しい環境が続く大町市と大糸線であるが、一方で盆地を取り囲む山並みの美しさが変わることはなく、「コロナ後」は外国人観光客数も大きく伸びているようだ。筆者も毎年のようにここを訪れて良質の温泉や山中の滞在を楽しんでいる。湯上がりに味わう冷たい「ハサイダー」が恋しい季節になってきた。このご当地サイダーは、黒部ダムに通じる関電トンネル内の破砕帯から湧出する水を使ったものである〔11〕。

南大町駅に停まる電車。向こうは当時の昭和電工大町工場、手前は同社グラウンド。開業時の駅名は「昭和」だった=1978年8月(信濃毎日新聞社保存写真)

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〔1〕『新版 角川日本地名大辞典』DVD-ROM版 KADOKAWA 2011年
〔2〕『官報』明治44年(1911)4月7日 第8334号【ここからリンク
〔3〕『日本国有鉄道百年史』第6巻 日本国有鉄道 昭和49年第2版 p.531
〔4〕「鉄の橋百選-近代日本のランドマーク」>20 穂高川橋梁-初代も二代も転用トラス 土木学会鋼構造委員会歴史的鋼橋調査小委員会 1994年【ここからリンク
〔5〕「JR大糸線高瀬川橋りょうの変状原因と対策」東日本旅客鉄道株式会社・正会員 田中淳一、同社・秋山あかね 土木学会第64回年次学術講演会(平成21年9月)【ここからリンク
〔6〕『信州の鉄道物語(下)』小林宇一郎・小西純一監修 信濃毎日新聞社編 2014年 p.175
〔7〕『汽車汽舩ポケツト旅行案内』大正6年11月号 東京旅行社 p.179
〔8〕『国鉄全線全駅』主婦と生活社 1983年 p. 242 *同書に掲載された国鉄の「乗降客数」はすべて偶数なので、原資料を単純に2倍したものと推定、信濃大町駅の5,568人の半分と判断した。
〔9〕各駅の乗車人員2019年度<JR東日本【ここからリンク
〔10〕各駅の乗車人員2022年度<JR東日本【ここからリンク
〔11〕大町温泉郷サイト>ご当地サイダー「ハサイダー」【ここからリンク

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