【第40回】「中軽井沢」になった沓掛宿

【図1】旧沓掛宿は四方から街道が集まる要衝であった。1:200,000帝国図「長野」昭和11年(1936)修正

明治期には「消滅」する中山道宿場の地名

 中山道で江戸から数えて19番目の宿場町が沓掛(くつかけ)である。碓氷峠を越えた軽井沢宿からは約5kmの道のりだ。
 沓掛という地名は全国にいくつか存在するが、交通路が難所に差し掛かる地点で沓(草鞋=わらじ)を履き替え、その沓を木に掛けて安全を祈願したことが地名の由来らしい〔1〕。この地名は峠や暴れ川の近くに目立つが、なるほど信州の沓掛も碓氷峠にほど近い。軽井沢、沓掛、追分の3つの宿場を「浅間三宿」と呼び、その中で沓掛は最も小規模ながら、脇街道の上州草津道(現国道146号)、浅間山東麓の分去(わかさり)茶屋で北西へ分岐する大笹仁礼(おおざさにれい)道、和美(わみ)峠を経て南東へ向かう下仁田道(姫街道)などが分岐する交通の要衝として発展した。
 ただ沓掛の地名は現在では一般にあまり認識されておらず、もっぱら中軽井沢だろう。もっともそれは無理もないことで、国として町村制が施行されるずっと以前に長野県独自の合併によって沓掛村は明治9年(1876)8月2日〔2〕に塩沢新田、成沢新田、借宿(かりやど)村、油井村と広域合併で長倉村となり、公式には消えてしまったからだ。長野県内での早期合併の背景は、地租改正や学制発布など中央政府の動きへの対応である。これらの施策を実現させるには一定の人口規模が必要で、とりわけ小規模な山村の多い長野県や岐阜県の飛騨地方などでは合併が急務だった。

【図2】草津軽便鉄道(後の草軽電気鉄道)の鶴溜駅が開業したばかりの沓掛とその周辺。森林軌道も見える。1:50,000地形図「軽井沢」大正5年(1916)鉄道補入

沓掛駅の誕生と軽井沢の知名度アップ

 新たな村名「長倉」は古代からの地名で、平安時代に馬を放牧していた浅間山南麓の離山(はなれやま)から借宿に至る広大な長倉牧(ながくらのまき)まで遡る。町村制が施行された明治22年(1889)には、さらに東隣の軽井沢村と峠町(旧碓氷峠西側の集落)と合併して東長倉村になった。この時に長倉村の一部を西長倉村として分離している。そちらの村域は南軽井沢から追分を経て浅間山頂に至る細長いエリアだ。町村制施行にあたっては、合併した旧村を大字としたため、沓掛の地区も正式には東長倉村大字長倉の一部となり、そこで沓掛は通称地名または地区名となった。このため現在のしなの鉄道中軽井沢駅の所在地は大字長倉3037番地2である。
 信越本線の前身である官営鉄道が上田から軽井沢まで延伸された明治21年(1888)時点での途中駅は田中、小諸、御代田のわずか3駅で、御代田~軽井沢間は13.0kmも離れていた。沓掛駅が新設されるのは明治43年(1910)で、駅の北側にあった旧沓掛宿の名をそのまま採用している。開業当時は長倉村であったが、大正期に入ると好況で別荘を持つ人が急増、当初は旧軽井沢や新軽井沢(軽井沢駅周辺)に限られていた別荘地も拡大、軽井沢の知名度は高まった。
 大正4年(1915)には雲場原(軽井沢駅北西側)で別荘地の分譲のために道路が整備され、盛んに開発が進められていくが、その後は同7年には沓掛駅の北側にある千ヶ滝でも若き事業家であった堤康次郎による別荘地開発が始まった。この年に後藤新平や新渡戸稲造らが「軽井沢通俗夏季大学」を開講する〔3〕など、避暑地として急速に発展していくのはこの頃からだ。
 「軽井沢」の知名度は飛躍的に高まり、大正12年(1923)8月1日には町制施行を機に東長倉村を「軽井沢町」と改称する。時代は少し遡るが、明治末には上州草津道に沿って草津温泉までを結ぶ軽便鉄道の敷設が計画された。当初の構想では街道筋の通りに沓掛が起点とされたが、多くの名士が別荘を構える軽井沢の「政治力」が勝って軽井沢起点(新軽井沢駅)に変更された〔4〕。それでも沓掛の住民を納得させるべく鶴溜(つるだまり)を経由することとなったのである。
 鶴溜駅の場所は離山のちょうど北麓で、沓掛駅からは道路距離でも2.3kmほどに過ぎない。いずれにせよ線路はかなりの迂回ルートとなった。草津方面から上田や長野方面へ向かう客はこの駅で降りて沓掛駅まで歩いたという。草津温泉まで全通したばかりの頃の時刻表〔5〕によれば、鶴溜~新軽井沢間は上り列車で24分前後かかっているから、鶴溜駅から沓掛駅まで下り坂を30分歩いたとしても軽井沢を回るより少し早そうだ。
 沓掛宿の東端を流れるのが千曲川支流の湯川で、文字通り各所で湯が湧いている。上流部に遡ればかつて草軽電鉄の駅もあった小瀬(こせ)温泉だ。その川沿いに沓掛宿から北へ2kmほど行ったところには赤岩鉱泉があり、製糸業を営む星野嘉助(初代)がこれを買い取り、大正3年(1914)には自らの名を冠する星野温泉ホテルを開業した。隣接して「野鳥の森」も設けている。軽井沢という土地柄で北原白秋や与謝野鉄幹、晶子夫妻を始めとする文人たちが訪れて有名になったが、現在では高級リゾートの代表格として評価の高い「星のや軽井沢」に引き継がれている。

【図3】湯川に沿って星野温泉が開業、千ヶ滝の別荘地も開発が始まった。信濃追分駅(左下)は大正12年の開業。1:50,000地形図「軽井沢」昭和12年(1937)修正

昭和30年「沓掛」当時の中山道沿いの通りの様子。この4年前に「沓掛大火」で壊滅的な被害となったが、見事に復興した。正面は離山=昭和30年4月(信濃毎日新聞社保存写真)

拡大するブランド地名―「なかかる」の誕生

 沓掛が通称として「中軽井沢」と呼ばれるようになるのはいつ頃からだろう。東京の銀座や田園調布などの例で明らかなように、「ブランド地名」は常に拡大する傾向にある。軽井沢も同様で、大正期に群馬県長野原町に「北軽井沢」が出現し、信越本線の南側の地蔵が原一帯の「南軽井沢」、追分や御代田方面も「西軽井沢」と呼ばれるようになった。もっとも、土地の価値を高めるための半ば意図的な動きかもしれないが。
 旧沓掛宿には軽井沢町役場も置かれ、国道18号から146号が分岐する交通の要衝であること、地理的にも町域のちょうど中央付近に位置することから中軽井沢の通称が生まれたようだ。
 昭和26年(1951)4月には、沓掛地区で143棟が全焼する大規模火災があった。これは「沓掛大火」として地元の歴史に刻まれている。『角川日本地名大辞典』は「地区名」としての中軽井沢を「昭和35年(1960)から」としているが、その4年前の同31年にはすでに信越本線沓掛駅が中軽井沢駅と改称されている。私が子供の頃に眺めていた時刻表では、信越本線に特急「そよかぜ」という季節列車があり、行き先がちょうど中軽井沢だった。昭和43年(1968)7月に登場したこの特急は東京駅始発、上野から横川までノンストップなので印象に残ったものである。
 約半世紀前の小学生の頃、軽井沢に親の実家がある友人に連れて行ってもらったのが私にとって初めての軽井沢だが、商売を営む彼の親の顧客が別荘の住人たちであった。鬱蒼たる森の中に点在する豪壮な建物群。大袈裟かもしれないが、私が「階級」というものを初めて意識した経験だったかもしれない。
 定着した「中軽(なかかる)」。ついでながら、平成25年(2013)に開館した町図書館などが入る地域交流施設は「くつかけテラス」。中軽井沢駅にもつながるこの施設の名前に、宿場の名がひっそりと蘇った。

【図4】新幹線が開業、中軽井沢駅はしなの鉄道の駅となった。1:50,000地形図「軽井沢」平成9年(1997)要部修正

中軽井沢地区の活性化を狙い、中軽井沢駅に隣接して町が整備した交流施設「くつかけテラス」。ささやかに「沓掛」の名前がよみがえった=平成28年9月(信濃毎日新聞社保存写真)

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〔1〕『日本「歴史地名」総覧』新人物往来社>交通地名の事典 p.277
〔2〕軽井沢町HP>土地・気象>4.沿革【ここからリンク
〔3〕『角川日本地名大辞典』DVD-ROM版 KADOKAWA 2011年>東長倉村
〔4〕写真集『草軽電鉄の詩』思い出のアルバム草軽電鉄刊行会編 郷土出版社 1995年 p.109
〔5〕『公認汽車汽舩旅行案内』大正16年1月号 旅行案内社 p.169

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