【第41回】駒ヶ根市と「赤穂」の地名

【図1】木曽駒ヶ岳の東麓に位置する駒ヶ根市。図は市が誕生した年のもので、宮田村が分離独立する前。西麓に位置する木曽の上松町もかつては駒ヶ根村を名乗っていた。当時の図は一部の助字に「ガ」を用いていた。1:200,000地勢図「飯田」昭和29年(1954)編集

5万分の1地形図に長く使われ続けた地名

 山登りする人が必ず携帯したのが、国土地理院発行の5万分の1地形図である。中央アルプスこと木曽山脈の最高峰である木曽駒ヶ岳(2,956m)から、その南側に位置する空木岳(うつぎだけ、2,864m)のエリアを目指す人が持参したのは5万分の1の「赤穂(あかほ)」という図である。
 このあたりの2万5千分の1地形図「木曽駒ヶ岳」「空木岳」の2図が発売されたのは昭和52年(1977)11月30日〔1〕と比較的遅いので、それまでは大正元年発行(明治44年測図)の図から60年以上もの長きにわたってこの「赤穂(あかほ)」が使われてきた。
 私がその図名を目にしたのは、まだこの地域の2万5千分の1が出る少し前の昭和40年代後半、中学校に入って地形図を集め始めた頃である。しかし、なぜこの地名が図名になっているのか理解できなかった。図を見渡せば最も大きな市街地が駒ヶ根市のそれであったから。そもそも地形図の名称は、その範囲内にある最も大きな町もしくは著名な山などが採用されるのがふつうだ。
 戦前に陸地測量部(国土地理院の前身)に在籍した方にいただいた地形図作成マニュアル『地形図図式詳解』が手元にあるが、これにも「図面ノ名称ハ其図面中ニ於テ最モ著名ナル居住地、山岳、岡阜(こうふ=小高い丘)、湖沼、原野、浜浦、岬等ノ名ヲ選ヒ若(もし)適当ノ名称ナキトキハ市、区、町村名或ハ地区名ヲ採ルヘシ(以下略)」と規定している〔2〕。そんなはずであるのに、聞いたこともない「赤穂」という地名が堂々と掲げられていたから戸惑ったのである。

【図2】村にしては大きな市街地を有していた赤穂村。三州街道の宿場町らしく南北に長い。町制施行は昭和15年(1940)であった。伊那電気鉄道の駅名は記載がないが「赤穂」である。1:50,000地形図「赤穂」昭和6年(1931)修正

駒ヶ根市誕生の合併では不協和音も

 駒ヶ根市は昭和29年(1954)7月1日に誕生した市で、赤穂町、宮田(みやだ)町、中沢村、伊那村の4町村合併によるものだ。市名は木曽駒ヶ岳の麓を意味し、公募で選ばれた。市の前身のひとつが中心地である赤穂町で、要するに図名は範囲内で最も大きな町として採用、それが駒ヶ根市となった後も何らかの事情で変更しなかったのだろう。
 飯田線の駒ケ根駅も昭和34年(1959)までは赤穂駅と称していた。伊那電車軌道(後に伊那電気鉄道から国鉄飯田線、現在はJR東海飯田線)が開業したのは大正3年(1914)と古い。一方で「赤穂浪士」として有名な兵庫県の赤穂(あこう)に赤穂鉄道(山陽本線有年(うね)駅が起点)の駅ができたのが7年後の大正10年(1921)の新しく、このため長野県の赤穂と区別するために播州赤穂を名乗ることになったようだ。同鉄道が廃止されて国鉄赤穂線となった際にも、播州赤穂の駅名は現在に至るまで引き継がれている。
 4町村合併で赤穂市が誕生した昭和29年(1954)は町村合併促進法が施行された翌年で、同28年10月1日の施行時に9,868あった市町村数は、同31年12月1日の同法失効時に3,968と〔3〕と2.5分の1に減少した。
 かなりの急ぎ足で上から進められた合併であったため、各地で「不協和音」も響いている。駒ヶ根市でも合併からまだ2年しか経っていない昭和31年(1956)9月30日に旧宮田町エリアが「宮田村」として分離独立した。その結果、旧宮田町(現宮田村)に位置していた木曽駒ヶ岳の山頂が市内から外れている。
 『駒ヶ根市誌』現代編によれば、4町村の合併決議を目前に控えた宮田の町民大会では、住民のほとんどが合併反対を叫んで騒然としたという(住民投票では約88%が反対)。町長がその場で辞表を手に説得、なんとか合併に漕ぎ着けたものの〔4〕、住民の思いは変わらず2年後には分離独立という結果になった。合併直前の宮田町は昭和29年(1954)1月1日に宮田村から町制施行したばかりで、ちょうどその半年後に駒ヶ根市大字宮田になっており、それが同31年の分離独立で村に逆戻りした。つまり2年少々の間に村→町→市→村と、三転する忙しい経緯をたどったことになる。
 なお宮田村は、21世紀に入ってからの「平成の大合併」でも当初上伊那南部4市町村の任意協議会には入ったものの早々に離脱を決め、法定協議会には加わらなかった。残る3市町村で「中央アルプス市」と新市名まで決めたが、住民調査を経て合併は結局頓挫した。

当時としては近代的な町並みとなった半世紀前の駒ヶ根市の駒ケ根駅前通り。この2年後には中央自動車道が名古屋方面から駒ヶ根インターまで開通した。公募で決まった市名の通り、木曽駒ヶ岳を含む中央アルプスの麓に広がる=1973年8月(信濃毎日新聞保存写真)

アルプス山頂まで「赤穂」 住居表示で旧町名復活

 赤穂は駒ヶ根市の大字となったが、この赤穂という地名も合併で誕生したものだ。ルーツは三州街道(伊那街道)に沿った赤須(あかず)と、南に隣接する同じく街道沿いの上穂(うわぶ)で、1字ずつ採った合成地名である。赤須村とその西に位置する上穂村は江戸期から一連の市街地だったようで、三州街道(伊那街道)の宿駅機能もこの2村併せて1宿の「合宿(ごうしゅく)」で営まれている。赤須村の方が人口は多く、両者が合併して赤穂村となった明治8年(1875)の人口は赤須が2,835人、上穂が2,116人であった〔5〕。
 その後は正式の大字名が広大な面積をもつ「赤穂」となり、自治体名も赤穂村(昭和15年から赤穂町)となったため、駅名の赤穂駅の他にも赤穂農商学校、赤穂高等女学校の他に赤穂小学校など、もっぱら赤穂が通用している。ちなみに農商と高女は戦後の昭和23年(1948)に合併して長野県赤穂高等学校として現在に至っており、途中で「駒ヶ根」の名に改めることはしていない。
 赤須と上穂の地名は、明治町村制が施行される14年前の明治8年(1875)に消えたため長らく公式な地名ではなかったが、それから100年以上が経った昭和56年(1981)には中心市街とその周辺に上穂北、上穂栄町、上穂南、赤須町、中央、北町の6つの町名が、同59年には東町、赤須東、経塚、梨の木、飯坂一~二丁目の5つの町名が設定され、併せて住居表示を実施した。
 かくして市街地の旧地名は復活したのであるが、それらの周囲は依然として広大な「赤穂」が占めている。その領域たるや飯田線の走る段丘上から中央自動車道を越え、木曽駒ヶ岳のすぐ南側に位置する駒ヶ岳ロープウェイの千畳敷駅、空木岳の山頂までを含むほどだ。

【図3】赤須・上穂が中心市街の町名として復活した現在の駒ヶ根市街地。「地理院地図」陰影起伏図・透過率80% 令和5年(2023)10月26日ダウンロード

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〔1〕 国土地理院HP>地図・空中写真閲覧サービス>地形図・地勢図図歴【ここからリンク
〔2〕 『地形図図式詳解』陸地測量部 昭和10年5月1日改訂 p.232
〔3〕『全訂2版 全国市町村名変遷総覧』日本加除出版 2023年(資料編p.27)
〔4〕『駒ヶ根市誌』現代編 p.255~257
〔5〕『角川日本地名大辞典』DVD-ROM版 2011年より「赤須」「上穂」

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