胸のざわつき ―冬のアラスカを撮る その1

 2019年11月末、成田を出てシアトルで乗り継ぎ、フェアバンクスへと向かった。いつもより短い3週間の遠征であるにもかかわらず、羽田を出てからずっと緊張感を感じていた。毎年3~4カ月はアラスカに遠征している経験値から、大概のアクシデントに対する心積もりはできている。しかし、今回は冬のアラスカということもあり、機材と装備に不足がないかの懸念が払拭できずにいたのだ。
 12月ともなれば、僕のメインフィールドである山脈の中はマイナス30度を下回る。新雪の時期なので、腰の辺りまで雪が積もることもある。その中を50キロ程度の装備を背負って歩きながら撮影するとき、装備や機材に不足があってはせっかくの遠征を無駄足にしてしまうかもしれない。それどころか、ミスに気付くのが遅くなれば、命の危険だってあるのだ。
 北アルプスで装備のテストはしたし、フェアバンクスにもアウトドアの店はあるから買い足すこともできる。「うん、大丈夫なはずだ」。自分に言い聞かせたが、フライト中はどこか気持ちが落ち着かなかった。
 フェアバンクスについたのが11月26日深夜1時頃。空港の外に出ると、一度めの呼吸で鼻毛が凍りつくのがわかった。頬をなでる風は緩やかなのに、空気はひどく冷たく乾燥していて、切れるかのようだ。ふと北アルプスの山小屋でバイトをしていた瞬間が頭をよぎった。小屋開けの4月のころ2700メートルの稜線は寒くて、雪かきをしようと小屋の外に出ると鼻の中が凍ったのを思い出したのだ。
 道路の気温表記を見ると「-3°F」。マイナス20度くらいかな。華氏の気温を摂氏に計算してそう呟いた。雪はさほどないように見えたが、足元の路面はしっかりと凍っていて、ああもうアラスカなんだよな、と思う。少し待っているとチョウが車で迎えに来てくれた。
 「ようこそ、クソ寒いフェアバンクスへ」
 仰々しいくらい分厚いダウンに包まれたチョウが微笑んだ。国際空港とは思えないほど小さな空港を出て、片側3車線のメインの通りを10分ほど走る。僕がよく使うガソリンスタンドを左に折れて脇道に入ると、除雪された雪があちこちに積まれていた。10日前くらいに結構降ったらしい。彼のホステルに着くと、自宅に戻ったような安心感もあったが、予想していた通り、悲しい気持ちになった。前回の遠征でこのホステルを出た時より、家の中が整理されて閑散としていたからだ。というのも、チョウはホステルを閉め、ニューヨークに住む奥さんの元へ引っ越すことを決めたのだ。2020年の初めにはアラスカを出ていってしまう。もう1カ月ほどしかない。
 普段僕は、あまり一時的な感情に引っ張られないように努めているのだが、この時は悲しみと寂しさが止めどなく湧いてきて胸が潰れそうだった。アラスカに通い始めた最初の年から世話になり、いつも気にかけてくれたチョウ。いつの間にか心の支えのようになっていたのだろう。フライト中の胸のざわつきはこれも一因だったのだと、今になれば思う。

 翌日、外に出ると天気がよかった。空気は相変わらず乾燥していて頬が痛い。音を立てないようにガレージまで行き、マイカーの五つのドアすべてを開け放って、車内の荷物の整理を始めた。相変わらず、これが楽しくも大変な時間だ。一つ忘れると大惨事になりかねない。カメラ機材は耐低温性能と防水性能の高いOLYMPUSで固めるので迷いはない。ギアは日本製・アメリカ製などさまざまだが、今回の目玉はなんと言っても防寒具。Foxfireの耐極寒クロージングギア、オーロラジャケットやオーロラパンツを日本から持ってきた。特に生き物やオーロラを待っているような体を動かしていない時の防寒対策はキモ。良さそうな生地に分厚いダウンが詰まっていて頼りになりそうだった。しかし、街で見た時には頼りがいのある装備であっても、フィールドでは実力不足、なんてことはしょっちゅうだ。実際にトライしなきゃ使えるか分からんな。そう思いつつザックに詰めた。
 ほかは厳冬期の登山用のものを中心にそろえ、夏の倍くらいの量の燃料も準備した。バーナーは念の為、分解して清掃もした。あっという間に2時間ほど経ってしまう。開店と同時にアウトドアの店に向かい、薄手の帽子を選ぶ。車には厚手のしか見当たらなかったからだ。レジの横にあったポストカードも買ってしまった。アメリカの写真家の写真は強めに加工されていて驚かされるのだが、ポストカードの裏にその写真のバックグラウンドが色々書いてあって勉強になる。店を出てガソリンを入れてから、「ジュン」という韓国料理屋に寄ってカルビ定食のようなものをテイクアウトした。
 ホステルに戻ると、いつもは昼頃に起きるチョウが起きていたので、一緒に食べようと声をかけた。食べながら「今回の撮影は10日ほどでいったん戻ってくる予定だ」と伝えると、「ダイシのそのフレーズを聞くのもこれで最後か~」なんて言うものだから寂しさがまた込み上げた。しかし、今回の遠征はいつもより短い上に大きな撮影ミッションも兼ねているので、思い出話をしたりする余裕はない。そう自分に言い聞かせ、ご飯を食べ終えると、挨拶もそこそこに、追われるようにアラスカ山脈の方へと車を走らせた。

チョウは片付けが進む家のワンコーナーに、布団セットを用意してくれていた。
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