素手と寒さへの恐怖 ―冬のアラスカを撮る その2

 今回の遠征にはいくつかの目的があった。真冬の生き物たちとアラスカの山脈の中で出会い、その暮らしと表情を撮ること。今まで春~秋には多く出会ってきたが、冬はあまり撮影にくることができていなかったからだ。そして、それをこなすには、前段階として幾つかの障害を乗り越えないといけない。ソリをひきながら山脈の中に入っていけるのかどうか。オリンパスの最新カメラの機能や耐寒性能が冬のアラスカに耐えうるかなどだ。まあ、耐寒性能というなら、否が応にも持っていくもの全てがテストされることになるのだが。
 目的のアラスカ山脈の入り口まで、普段なら車で2時間程度。しかし道がどこもしっかり凍っているので、いつもより時間がかかりそうだ。カーブの多い丘を登ったり下ったりするので僕の古い車では横転しそうだから注意しないといけない。ハンドルをしっかり握って走り出す。街にいる間は良かったが、街を外れるとブレーキを踏んでも速度を落とすことなく進んでしまい、肝を冷やした。
 タイヤは2年前に新しいものに変えたのだが、あまり効いていないようだ。信州の氷と何が違うのだろうか。なんだかタイアが地面を掴んでいる感じがせず不安を煽られた。迷う時間ももったいないので、思い切って空港まで戻って新しいSUVを借りることにした。痛い出費だぜ、と思ったが、命には変えられない。ええいっ、と2週間パックで借りることにした。
 ピカピカのレンタカーに必要な荷物を全て移動させ、南下を再開。いろいろな機能がついている新しい車は安定した走りを見せれくれ、安心した。カウンターで、「できるだけ新しいタイヤの車にして欲しい」、と頼んだ時、任せろとばかりに親指を立てていた。返却の際にはあの女性にお礼をしよう。
 車窓に目を向ける余裕が出てきた。あちこちで雪がキラキラ反射している。何度もの遠征で見慣れてきたなと思っていた国道沿いの景色は、まったく新しい風景のように見えた。
 1時間も走ると、ズーンと頭の上から重い空気に押されるような感覚があった。昨夜は感じなかった時差ぼけが遅れてやってきたらしい。どうにも抗いようのない眠気が押し寄せてきたので、道路沿いに停めて寝てしまった。コンコン、と運転席を叩く音で起きた。咄嗟に、警察かな、と思ったが、通りがかりの人だった。「生きてるね、よかった。何も問題ないかい?」と聞かれた。「時差ぼけで眠くて」と答えつつ、親指を立てて見せた。時計を見ると2時間も寝てしまっていた。
 道端で車を停めていたので、心配をかけてしまったようだ。冬のアラスカの田舎道や山道では、お互いに気遣うシーンをよく見かける。助け合いの精神、というか、おそらく多くの人が誰かに助けられた経験があるのだろうと思う。「〇〇方向に行くなら2台で行かないか?」と誘われたことも何度かある。どちらかに何かあっても協力しあえるからだ。現地に住んでいない僕にとっても大変ありがたい習慣だなあ、と空をボーっと眺めていた。15時頃だったがすでに太陽の角度はかなり低い。明るい時間は日本にいるときには考えられないほど短い。キンキンに冷えた(ほぼ凍った)クラフトコーラを飲むと頭もスッキリしたので、運転を再開した。
 さらに1時間半ほど南下した。秋までは入れる道路も、主要道路以外はかなりの部分が閉鎖されており、取りつこうと思っている山の入り口になかなかたどり着けない。国道を行って戻ってを繰り返し、細い道に入ってははじき返され、良いと思える場所にたどり着いたのは20時だった。この日は装備や機材のテストも兼ね、一晩山の上で過ごすことに決めていた。気合を入れるために、出国前に知り合いにもらった香川のうどんを食べた。信州に移住してからそばが好きになったが、やはりうどんも美味い。

 睡眠も食事も取ったので、元気はいっぱい。体内にエネルギーが満ちている感じがあるとフットワークは軽くなる。えいやとザックを背負い、ヘッドライトを頭に装着し、山道を登り始めた。一晩だけなのでザックは軽い。歩き始めると月明かりが雪面に反射していて、ヘッドライトをつけなくてもなんとか登れた。10分も歩くと体が暖まってきて、なんだかテンションも上がり、カモシカになったかのような気分だ。一気に標高を上げ、息は上がっているが、風もあるせいかあまり汗はかいていない。オーロラジャケットのアウターを羽織っていたが、登山の動きを妨げることはなく快適だったこともよかった。
 30分もすると暑くなってきたので、アウターを脱いだ。頬が凍傷にならないようにフェイスガードをつけたり外したり、手袋を二重にしたり1枚に戻したりしながら歩き、24時前には稜線に着いた。カメラを三脚に据え、オーロラの出現を待つ体勢に入った。ただの勘だが、今夜はオーロラがでない気がしたので、三脚の1台は星空専用に変更した。
 キラキラと音がするかのように星が瞬いている。文字通り降ってきそうだった。5分も経たずに真っ先に冷えを感じたのは、意外にも太ももだった。すぐにオーロラパンツという分厚いダウンパンツを履く。大事をとって胸元にはカイロを貼った。
 薄いオーロラが出たので、素手で作業をしようと手袋から手を出すと、日本では感じたことがないような恐怖心が一気に吹き出してきた。素手を出した瞬間に指先に痛みが走った。体熱を逃すまいと、指先の血管が瞬時に収縮したのだ。怖くなってすぐに手袋で手を包んだ。
 「素手で作業するのはできるだけやめないと。厳冬期の北アルプスより危険度を上げて考えよう」
 そう思い、インナーグローブの上に分厚いオーロラグローブを着ける。体の中心を温めると気持ちが落ち着くのでお湯を飲み、背中にもカイロを貼ることにした。結局朝4時過ぎまでその格好のまま撮影を続けた。じっとしていると冷えるので、クルクルと三脚のそばを歩いて過ごした。
 この夜は実のところ、まともなオーロラは出てくれなかったが、手応えと希望も感じた。「冬のアラスカ撮影もなんとかなりそうだ」。カメラもバッテリーも止まることなく動いたし、装備も持っているもので足りる。今夜はザックで来たが、平なところならソリを引いて歩けそうな雪質だった。日本を出国した頃から僕に付きまとっていた不安感は随分と薄れ、すっかり撮影に集中できるポジティブ気分となった。明日以降の具体的な行程を頭の中で考えながらの下山の足取りは軽い。歩いているとさすがに暑くなって、途中カイロだけは外した。

撮影時の様子。この下に分厚いダウンを着て、胸元にはカイロも貼っている。右手ではヘッドライトが光っている。
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