汗との闘い ―冬のアラスカを撮る その3

 車に戻ったのは、朝7時頃だった。運転席に乗り込み、エンジンをかけた。表示には「外気温-29F」と出ていた。新しい車だと車内と車外のどちらも表示されるのか。格好いい。摂氏にするとマイナス34度くらい。どおりで寒かったわけだ。エンジンがかかれば一安心。地図を開き、撮影に向いていそうなエリアや、徒歩でアプローチしやすそうな尾根や谷筋がないかを考えていると、いつの間にか眠りに落ちていた。
 お昼頃、はっとして目を開けると、一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。「あ、アラスカのレンタカーの中か」。運転席に目をやってエンジンを切っていることに安堵した。眠りに落ちる前に切ったようだ。排気口が雪で埋まると事故につながりかねないので、寒くても寝る時にはエンジンを切らないといけない。
 「ナイス!昨夜の自分!」
 ほっとして、昨日スーパーで買ったベーグルをかじる。アメリカのスーパーで売っている食パンは食べられたものではないが、ベーグルは美味い。本当はホットミルクを飲みたいところだが、ポットに入ったお湯を飲んで一息入れた。落ち着いたところで、昨夜途中まで検討した撮影エリアを考える。オーロラ、ムース、リス、ウサギ、オオカミ...。どこに入ればどんなシーンに出会えるだろうか。しばらく考えたのち、今持っている装備、バッテリー、食材、体力を考慮し、行き先を決めた。

 まずは少しだけ車を移動させる。しばらく置いておいても平気そうな場所に止めた。車を見かけた人に心配をかけないように、1週間ほどで戻る旨をメモに書き、運転席と助手席の窓に貼るのもいつものことだ。そして、約10日分の装備をザックに詰め込み、ソリに載せる。重さは40キロ程度。何せ雪がそこらにあるから、水を積まなくても良いのは助かる。ソリに結んだロープの先にカラビナをつけ、両肩にかけたスリングの背中部分に輪っかを作り、カラビナをひっかける。
 よし、歩き始めるかー。空を見上げると、雪は降っていないが曇っていた。ま、晴れるよりいいかな。
 アラスカの内陸のエリアでは、内陸性の気候で晴れた時の方が最低気温はグッと下がり、曇っている方が高くなるからだ。ピーカンになってマイナス30度を下回ってしまうと、少し肌が露出しているだけで凍傷になってしまうし、オーバーワークして汗をかくことが命取りになる。汗の対策で、上半身はなるべく薄着にしたが、指先は冷やさないようビニールグローブの上にフリースのグローブをつけて歩き出した。
 しばらく歩いていると、すぐに暗くなった。冬至に近いこの時期、日照時間は5~6時間程度しかない。だが、あと2日間は冬季閉鎖されている道路上を歩くので道に迷う心配はないし、この時期クマは冬眠していることもあって、日が暮れても不安は湧かなかった。
 それよりなにより、冬のアラスカで難しいのはやはり体温調節だ。汗をかかないように、と思っていても、背中にはじっとりと汗をかくので、休憩を取って10秒も経つと背中が冷えてくる。これだけの荷物を引いているとゆっくり歩いていても汗はかいてしまうし、かと言ってこれ以上薄着にしたら直接外気に触れる部分が出て凍傷になるしなあ。ううむ、どうしよう。そんなことを考えながらロープの結びを解いて、位置を変え結び直した。
 その時、ふと気づいたことがあった。それは、指先がいつも通り柔らかく動くのだ。おそらくグローブの手首部分にファーが付いていて、手首まで包んでいるおかげだろう。焦ったりパニックになったりすると、パフォーマンスは大きく減退するが、自分に合った装備をすれば、いつも通りの自分が保てる。アラスカでは自分で自分を守るしかないから、 "いつも通りの自分" を保てることのありがたさに改めて気づいた。装備に感謝した。
 手首は暖かい。しかし休憩中の背中がひどく寒いことに変わりはないかった。寒いが、歩き始めればすぐに収まる。気温が低過ぎないおかげもあって、背中にかく汗は致命的なダメージにはならないだろう。すぐにインナーを替えられるよう、着替えをソリの上の方に置いた。その後も10秒に満たない休憩を重ねながら歩いたが、3時間も歩くとそれもキツくなり、長時間休むことも出てきた。その時は、スリングをはずしたらすぐに上半身裸になり、手ぬぐいで上半身の汗を拭いて即座に上着を着ることで、冷えるのをなんとかしのいだ。

 途中までは、スレッドドッグたちが走った跡の上を歩いた。彼らは走りながら用を足しているらしく、雪の中のあちこちに糞が隠れている。最初は避けていたが、途中からはどうでも良くなって踏みながら歩いた。しかし、ある地点から彼らのトレースはなくなり、そこからは30cmほど積もった雪をラッセルして進む。新雪の上ではソリが進まなくてイライラしたが、背負うよりだいぶましだった。
 暗くなったのでヘッドライトを点け、ナッツやチョコを食べながら歩き続けた。いつの間にか大粒の雪がしんしんと降っていた。ふわふわの雪がメガネにつくので邪魔だったが、一人で歩いているので、雪と会話するように「もう~やめてー」なんて言いながら眼鏡を拭くのも楽しい時間だった。
 犬の足跡がなくなったことに雪の消音効果が加わり、目をこらしても耳を澄ましてもなんの気配も感じられない。自分の呼吸と、装備の擦れる音だけを聞きながら歩いた。履いているパンツがギュギュウっと擦れる低い音が聞こえると、何かの生き物が喉を鳴らす音に聞こえて不気味だった。どこから聞こえているのかわからず、思わずヘッドライトを左右に広がる森の方へ向けるが、何も見えない。暗い森を背景に、ヘッドライトの光を反射する大粒の雪が、上から下に向かって軌道を描き続けていた。
 体温調節のため帽子をつけたり外したりしていたが、外している時に頭に雪が積もって自分の熱で溶け、そのまま氷になっていく様子が面白かった。ずっと放っておくと、氷柱のようになる。

走っている彼らに出会う機会もあった。子供のようにはしゃぎながらも、自分の役割をしっかり認識している責任感も垣間見えた。
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