野生の逞しさと虚しさ―白夜を撮る その4

 2時間歩いても、振り返るとまだ車が見えていた。まだ文明と繋がっているような気がして安心するような気もしたが、片足がぬるま湯に浸かっているような感じがして気持ち悪かった。
 それでも4時間ほど歩くと、谷の緩やかなカーブに差し掛かり、車も道路も見えなくなった。「ここからがいよいよアラスカだ」「ま、どこもアラスカなんだけど」などと意味のないことを言いながら歩いていく。ツッコミ役も自分なのが寂しいところだ。
 気温はさほど高くないし風も冷たいのに、ひどく汗をかいていた。相変わらず周辺には蚊がウヨウヨとしているので、レインジャケットを脱げずにいるせいだろう。蚊を気にし始めるとキリがないし大変だ。なので、足元の花を愛でながら一歩ずつ歩いた。地下足袋の親指のところで花を摘まないよう、そっちに集中しながら歩くとだいぶ気が紛れた。
 広い谷の中央あたりまで歩くと、沢が流れていた。あちこちから湧いた細い流れが合流してできた綺麗な沢だ。これならフィルターを通せば飲めそうだとも思い、背負っていた水を3リットルほど捨てた。
 ザックを一度下ろしてしまうと、もう一度背負うのには気合がいる。気合が充電されるまでの間、ツンドラにところどころ顔を出している岩の上に座った。燦々と光っている割には弱い太陽光を浴びていると、左上の斜面に何かの気配を感じた。
 目を凝らすと、山の斜面にある雪渓を滑るように降りていく生き物がいた。クマだ。僕までの距離は、まだ200メートルはある。が、雪渓の途中で止まり、こちらに気づいた。この距離でこちらに気付くクマは珍しい。神経質なやつなのかな。そう思って見ていると、ハッとしたような表情をして、斜面を駆け登っていった。
 カメラを出し、ファインダーを覗く。随分と体の白い個体だった。まだ親離れしてすぐくらいの大きさに見える。こちらを振り返りながら、必死に逃げていくクマ。斜面の向こうに消えていく時も、誰かに追われているかのようだった。
 あの白さは普通のグリズリーではなさそうだ。アルビノか、近年増えてきているシロクマとブラウンベアーのハイブリッド(ピズリーやポリズリーなんて呼ばれているらしい)かもしれない。もしかして、見た目が珍しいから仲間や家族にいじめられていて、あんなに必死に逃げたのかな。僕の勝手な想像ではあるが、そう考えると一人でこの広大な中で生きていく野生の生き物の逞しさと虚しさを感じずにはいられなかった。
 彼の背を見送った後、少し軽くなったザックを背負って立ち上がった。蚊は黒いものに群がる習性があるから、彼はその点は他のクマとかジャコウウシとかに比べて暮らしやすいのかな、と思った。と、そんなことを思っている自分の帽子が黒いことに気付いた。"知識"はあるのに"体験"が不足しているとはこういうことか。なんだか恥ずかしくなり、この時以降僕の帽子はカーキになった。

 徐々に標高を上げながら進んでいる中、時計を見ると21時になっていた。明るいので時間の感覚がわからない。そろそろテントを張る場所を見つけよう。
 ふと手首を見ると、腕時計のバンドの隙間が蚊に刺されていた。蚊も必死なんだな。でも正直なところ、あのクマと同じような逞しさも虚しさも感じられない。なんて自分は勝手なんだと苦笑した。

稜線の向こうへ逃げていく。雪渓で一人遊びしているところだったのかもしれない。
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