2020.11.06

恋の始まりの予感 妄想吹き飛んだポエム

「教科書、貸してくれない?」

 隣のクラスの女子の柔らかい声が鼓膜を撫でた。

「別に良いけど」

 返す言葉は冷静そのものだが、その胸は激しく鳴っている。あたかも何でもないぜ、というように教科書を手渡すと彼女は

「ありがと!」

と言ってスカートをなびかせ去っていく。

 他にも借りる相手はいたはずなのに、なぜ俺なのか。

 これは、もしかして、もしかしたら、もしかするかもしれない。

 教壇では担任が歴史の授業を始め、民のために立ち上がった江戸時代の偉人、大塩平八郎の勇姿を熱弁している。しかし全く頭に入ってこない。平八郎には悪いが、塩だろうが味噌だろうが知ったことではない。

 恋の始まりを予感した俺は、貸した教科書に憑依したつもりで妄想を始めた。

 彼女の柔らかい掌に包まれ、大きな瞳が俺の体を射抜く。朗読する彼女の吐息を浴びる。危うく全身の活字が崩れそうになるが、どうにか堪えてグッと背筋を保つ。

 しかし、彼女にページの端を指先でめくりあげられるとさすがの俺もお手上げだ。

「もうダメだー!」

 思わず声が漏れそうになったその時、彼女の手が止まる。

 はて?どうしたんだ? 俺を見つめる彼女の視線の先を確かめる。

 その瞬間、妄想の世界から一気に引き戻された。

 鮮明に思い出したのだ。昨日、教科書の端に綴った魂のポエムを。

 漆黒の闇が我に問い掛ける子羊よ おまえは何を成すのだ(以下略)

 一瞬にして体中の血液が顔面に大集合、脇汗は滝の如く。これはやばい。

 こんな時、大塩平八郎先生ならどうするのだろうか。

 いまさら先生などと呼ぶのは調子がいいのはわかっている。恥は承知だ。どうか民の救済のために売却した5万冊の蔵書の中に、今すぐ俺の教科書を加えてほしい。俺も助かるし、民も助かる。まさにウィンウィンだ。その金で今夜はピザでもとってほしい。

 そんな願いも虚しく、秒針が進むのをただ見ているしかなかった。授業が終わると凍りついた笑みを浮かべた彼女が、俺の元へやって来た。

 何も言えず赤面し俯く俺に

「滝原くん、あたし見たけど...読んでないから」

と言った。

 見たけど読んでない、って一休さんかよ!と思いながら咄嗟に出た一言は

「...は? なにが?」

であった。なんと情けない。

 その後、一人になり改めて自らのポエムを読み上げた。

 子羊よ、おまえは何を成すのだ

 あれから十数年、その答えを今も探し続けている。

【写真説明】愛知県豊川市, グレープパークコートにて

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