滑る氷をつくる(上)=こだわりの「無給」辞令


 スピードスケートの長野冬季五輪会場「エムウエーブ」で、十四日から世界選手権が行われる。国内では初の四百メートルトラック屋内リンクが国際舞台にデビューするときだ。「氷の滑りはいいか」―世界の注目が集まる。その氷をつくるのは「信州の職人」だ。滑る氷、全選手に公平な氷をつくることにこだわる人たちにスポットを当てた。

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 「真駒内スピードスケート競技会場整氷主任を命ずる(無給)」。二十六年前、札幌五輪の組織委員会から五味博一さん(75)=諏訪市・現全日本軟式野球連盟会長=に対して発行された辞令だ。

 五味さんは、現在の整氷機の原点ともいえる、ドラム缶にお湯を入れ、リヤカーで引く手づくりの整氷機を考案。昭和三十年代、蓼ノ海(諏訪市)のリンクを「日本記録製造リンク」に仕立てた人だ。真駒内スピードスケート場の整氷主任として招かれたとき、五味さんが付けた条件が「無給」だった。

 「給料の希望は?って聞かれたから、給料をくれるなら行かないと言ったんだよ。給料をもらうと、もっと高い人、えらい人にいろいろ言われるだろ。言わせないために無給にしたんだ」。たつ子夫人(74)が旅館経営で支えたから言えた“わがまま”を押し通した。「札幌はかえって高くついたんじゃないかな」と笑う。

 五輪前年のプレ五輪を終わった後、五味さんは「水が駄目」と、水道水のろ過装置をつけさせた。「信州人だから、ストーブのほかにコタツも用意を」の条件で宿舎を確保させ、作業員も蓼ノ海から連れて行くことを要求した。

 「製氷会社じゃない。氷ができればいいってもんじゃない。機械操作だって整氷者が指令を出さにゃ。氷は生き物。情熱と愛着を持ってツーカーでやらないとリンクはできない」。氷から離れた今でも、リンクの話になると熱っぽくなる。

 札幌五輪本番。男子五百メートルで優勝したエアハルト・ケラー(西ドイツ=当時)が、リンクサイドにいた五味さんを真っ先に探して手を差し出した。「ありがとう」の言葉と握手。最もうれしかった瞬間だという。「いくら雪が降っても、徹夜で除雪して選手は朝から練習できるようにしたんだ」と懐かしそう。「記録は出るにこしたことはないが、選手が『よかった』と思えば、それでいい」と力を込めた。

 札幌から長野へ舞台が移り、五味さんからバトンを受けたのは、松本市の浅間温泉国際スケートセンターで十五年間氷づくりをした鷹野隆さん(54)だ。

 エムウエーブで氷づくりが始まったばかりの十月末、現場を訪れた五味さんは「楽なもんだ。屋根付きだから雨や雪、落ち葉の心配もない」とうらやましがる一方で、「鷹野も大変だね」と同情した。

 浅間時代、冬の鷹野さんのトレードマークは黒々と蓄えたひげだった。視察に出掛けた、当時の「世界記録製造リンク」メディオ(カザフスタン=当時ソ連)で「ブラックベア」のニックネームがついていた。だが、長野で五味さんを迎えた鷹野さんはネクタイにヘルメット姿。

 五味さんは「組織の問題かね。氷を3センチにして引き渡すまでは、整氷担当は何も言えないみたいだ」と、契約条件では、表面の氷の土台となる「根氷」づくりができない整氷担当の立場を心配した。

 ところがどっこい、浅間当時から五味さんの薫陶を受けた鷹野さんのこと。勤めていた三協精機を早々に退社し、一昨年の六月は、現代版「世界記録製造リンク」のカルガリー(カナダ)で氷づくりを自費研修したほどの職人が、黙っているはずはなかった。

 「(他人がつくった根氷なら)氷を解かしてやり直す」と主張。氷が膨張した時に亀裂が入らないよう、リンクの枠を木からカルガリーと同じロープに変えるなど、役所のいやがる設計変更も実現、根氷づくりにもタッチしていた。

(1997年2月11日 信濃毎日新聞掲載)