石垣の「島言葉」に「戦争」という言葉ない 戦後77年 本紙記者のルポ①

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沖縄戦の体験を話す山里節子さん(右上)と辺野古新基地建設に抗議して座り込む女性(左上)、新基地建設が進む大浦湾を眺める中学生たち(下)のコラージュ

■石垣に住む女性「これまでも自然、壊された」 

 “最前線”の沖縄で、沖縄戦体験者の声を聞かないわけにはいかなかった。石垣市の「住民投票を求める会」の紹介で、市街地に暮らす山里節子さん(84)を訪ねた。

 山里さんは家族4人を失った。生後4カ月の妹は防空壕(ごう)の中で栄養失調に倒れた。海軍飛行予科練習生だった兄は1943(昭和18)年、2次試験に向かうため商船に乗り、鹿児島の口永良部島(くちのえらぶじま)沖で米潜水艦の魚雷を受けた。

 石垣島の沖縄戦に地上戦はなかったが空襲や艦砲射撃で命を落とす人もいた。45年、国民学校2年だった山里さんは、避難中の山小屋でマラリアに罹患(りかん)。高熱が出て「骨の髄まで寒気が襲った」。祖父と母は耐えられなかった。

 戦後も家族を失うのと同じくらいつらい出来事が続いた。米国学者による島の地質調査に協力した後、その調査が軍事利用を想定していたと知った。「加担してしまった罪の意識は一生拭えない」

 72年に沖縄が本土復帰すると、中央省庁による島の土地改良や港湾の埋め立てが加速。生態系のすみかは侵された。アオサンゴ礁が広がる地区を埋め立てる予定…