世界との「窓」閉ざすまい 拡大する戦火の中 ペン倶楽部解散は拒否【島崎藤村「夜明け」求めて】⑥

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日本ペン倶楽部が藤村の個人的な影響力により存続し続けていること、亡命を余儀なくされた会員と連絡を取る意思のあることを伝える英国ペンクラブの会報(1941年8月発行)=加藤哲郎・一橋大名誉教授提供

■第2部 近代とは何か㊦

 昭和11(1936)年9月14日、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスでの国際ペン大会会議最終日。日本ペン倶楽部(くらぶ)副会長で、島崎藤村に同行した有島生馬(いくま)(洋画家)が、得意のイタリア語で演説した。4年後に控えた日本の「皇紀2600年」に合わせて国際ペン大会を東京に招致する案を提起し、〈日本人は諸氏が日本に来訪の上、真の日本の姿を観察せられることを希望して居る〉と訴えた。

 神の子孫として連綿と続く皇統の下に、国威発揚と国民統合を図る重要な節目とされたこの年には、皇居前広場での式典の他、東京五輪や万国博覧会が計画され、国際ペン大会招致には、外務省の意向が強く働いていた。

 招致の経緯について藤村は多くを語らないが、提案が可決された後に憂慮の念に襲われた。大会ではドイツ、イタリアと並んで日本に対し〈世界を形づくる国家の中で最も攻撃的な国〉との非難も向けられた。緊張をはらんだ論議の様子を踏まえ、東京での開催は〈各方面共に、余程(よほど)の雅量なしには叶(かな)はぬこと〉と帰国後の大会報告に記している。

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 藤村にはもう一つ…