多様な方が普通なんだ〈ヘルシンキ多様性日記〉朴沙羅=思索のノート
■差異の無視は否定につながる
上の子がまだ就学前教育を受けていた時のことだ。フィンランドでは7歳から小学校に入学するが、その1年前から義務教育として就学前教育が始まる。12月6日はフィンランドの独立記念日で、子どもたちはフィンランドの叙事詩「カレワラ」の子ども向けのものを読んで絵を描いたらしい。
数日たって先生から連絡があった。今月はフィンランドについて学ぶ「フィンランドの月」だったが、同じクラスにロシア、トルコ、マレーシア出身の子どもたちがいる。だから来月から「ロシアの月」「トルコの月」「マレーシアの月」「日本の月」と、それぞれの出身地について学ぶ機会をつくりたい、協力してくれないか、と伝えられた。
その時私は、先生のある種の「軽さ」に驚いた。フィンランドもロシアもトルコも日本も、「このクラスの子どもたちの出身地」という点で同じなのだ。フィンランドが当たり前でその他が特別なのではない。就学前教育に移民がいることは、少なくともこの先生たちにとって「カレワラ」と同じくらい…