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戦時中 清内路へ海外から送金 郵便局文書 東大講師が確認

1941年度の清内路郵便局の「現金出納計算表」。左ページの上から12行目に外国為替の記述があり、同局が海外から送金を受けた「払高」は2410円と記されている1941年度の清内路郵便局の「現金出納計算表」。左ページの上から12行目に外国為替の記述があり、同局が海外から送金を受けた「払高」は2410円と記されている
 下伊那郡阿智村清内路(旧清内路村)で古い文書の調査に取り組んでいる東京大経済学研究科講師の小島庸平さん(36)が、清内路郵便局で1934(昭和9)年から44年にかけて、海外から年々増える形で清内路村内への送金があったことを確認した。この時期は村から旧満州(中国東北部)に多数の満蒙(まんもう)開拓移民を送り出しており、小島さんは「開拓団からの送金だったのではないか」と推論。ただ、満蒙開拓が専門の研究者らからは異論もあり、戦時下の送金の真相を巡って関心を呼びそうだ。

 清内路では2003年から東大の研究者らが古い文書の調査を続けている。この調査に参加していた小島さんが11年、清内路郵便局長の原和信さん宅で同局の1919(大正8)年以降の現金の取り扱い状況を記録したつづりを見つけた。文書には国内取引のほか、外国為替についても年度ごとに記されていた。

 文書などによると、同局で外国為替の取り扱いが始まったのは29年度。初めて送金があった34年度に1口30円(現在の約3千円)だった額は、年を追うごとに増え、ピークの44年度には106口1万8573円(同約79万円)に上った。文書に記されているのは送金額の総計と口数だけで、送金元や送金先は分かっていない。

 清内路村史などによると、35年当時、人口が2千人近くあった村から満州には300人余が移民として渡った。ただ、敗戦後に引き揚げた人への聞き取り調査をしてきた飯田市歴史研究所調査研究員の本島和人さん(69)=伊那市=は「飯田下伊那地方の開拓団から地元に送金をしたとの話は聞いたことがなく、この文書だけで結論付けるのは難しい」とする。

 満蒙開拓平和記念館(阿智村)の三沢亜紀事務局長(51)も「農村建設のために資金も必要で、送金するだけの経済的余裕があったかは疑問」と首をかしげる。満蒙開拓の歴史資料に多く触れてきた国文学研究資料館(東京)の加藤聖文(きよふみ)准教授(51)も「当時は南方に渡った人もいた時代。清内路から、どの国に何人が渡航していたかを調べる必要がある」と指摘する。

 ただ、小島さんの推論をきっかけに、未知の事実にたどり着く可能性もあるとみる識者も。満蒙開拓についての著書もある金沢大の小林信介准教授(46)=長野市出身=は「開拓団からの送金という観点で改めて証言を聞き取ったり、他の地域でも調査したりと『状況証拠』を探っていくとすれば興味深い」とする。

 小島さんは、推論を機に新たな証言や資料の発見を期待。当時の事情を知っている人らからの情報提供を求めている。情報は小島さん(ykojima@e.u―tokyo.ac.jp)へ。

(11月6日)

長野県のニュース(11月6日)