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裁判員制度10年 市民参加のあり方議論を

 78%―。2018年に裁判員の候補になった人のうち、辞退するか選任手続きを欠席した人の割合だ。09年に始まった司法への市民参加の制度が10年を経て直面している現実である。

 最高裁の毎年の社会意識調査では、義務でもやりたくない人がおよそ4割を占める。義務ならやらざるを得ないと答えた人を含めると8割以上が裁判員になることに後ろ向きだ。関心や理解が広がっているとは言いがたい。

 刑事裁判の一審を裁判員の市民6人が裁判官3人と担当する。権限は裁判官と同等だ。殺人、強盗致傷などの重大な事件で、被告が有罪か無罪かを判断し、有罪の場合は量刑も決める。

 政府の司法制度改革審議会が01年の意見書で、法曹人口の大幅な増員や法科大学院の新設とともに改革の柱として導入を提言した。1980年代に死刑囚の再審無罪が相次ぎ、冤罪(えんざい)を生む刑事司法のあり方に批判が高まったことや、裁判の分かりにくさが指摘されたことが背景にある。

<検察官司法に風穴>

 「見て聞いて分かる」を掲げた裁判員裁判は、法廷の風景を変えた。壁と机上の大小の画面に犯行現場の見取り図や写真が映し出され、検察官や弁護士は、法律の知識がない市民にも分かるように言葉を選んで話す…。

 裁判官が膨大な調書を法廷外で読み込んでいた書面中心の審理から、法廷でのやりとりを重視する公判中心主義へ。あらかじめ争点を絞り込む公判前整理手続きが設けられ、刑事裁判のあり方そのものが様変わりした。

 公判前整理で検察が証拠を弁護側に開示する仕組みが一定程度ながら整えられたことは大きな意味を持つ。検察が裁判の実質的な主導権を握ってきた「検察官司法」に風穴をあけつつあるのではないかと、元東京高裁判事の木谷明さんは著書で述べている。

 有罪の割合の低下がそれを目に見える形で示している。かつてほぼ100%だった有罪率は、裁判員が加わった裁判では、16年に98・9%、17年は97・9%に下がった。18年も98・1%だ。

 検察は有罪を立証できると確信した事件を起訴する。裁判員裁判の対象となる事件では、なおさら起訴に慎重な姿勢がうかがえる。それでも有罪率が下がったのは、「疑わしきは被告人の利益に」の原則がこの制度の下で徹底されている表れと見ていい。

 刑事裁判で最も大切なのは、無実の人を処罰しないことだ。市民参加の仕組みは重要な役割を担い得る。証拠開示のほか、裁判員裁判の対象事件では、取り調べの可視化(録音・録画)も進んだ。限定的とはいえ刑事司法に画期的な変化を生んだのは確かだ。

<押しつけではなく>

 裁判員は、司法権、刑罰権という権力行使の一端を担う。市民が引き受ける責任は重い。判断は人の一生を左右し、死刑を言い渡して命を奪う場合もある。裁判員を終えても精神的な重荷を負い続ける人は少なくない。

 市民の参加を義務と位置づけた制度には根本的な疑問がある。主権者として責任を分担することは大事でも、国家に強制される理由はない。あくまで市民の主体的な意思に基づくべきだ。

 国政に参加する参政権も、権利であって強制はされない。上からの押しつけは市民参加の名を借りた動員になりかねず、民主的な基盤の確立にはつながらない。

 候補者の8割近くが辞退、欠席している現状を見れば、運用は緩やかだが、制度上、市民に拒む権利はない。行政罰や刑事罰を科す規定も設けられている。

 罰則を定めて意思や行動を縛ることは、個人の尊重という憲法の人権保障の根幹にかかわる。人を裁くことはできないといった考えを持つ人に参加を強いれば、思想・信条の自由を侵害する恐れがある。個々の選択を前提にした仕組みに改めるべきだ。

 生涯にわたる守秘義務も過重な負担を強いる。裁判員、裁判官による評議の内容や経過は、任を終えても口外できない。経験の共有を妨げ、制度を検証する壁にもなっている。守秘義務を課す事柄や期間の見直しが欠かせない。

 けれども、裁判所をはじめ司法関係者に、10年の経過を踏まえて制度のあり方を再検討する機運は乏しい。最高裁長官は「おおむね順調に歩み続けている」と述べている。議論は運用をどう改善するかの範囲を出ていない。

 「国民の参加」をうたいながら、社会の広い層の意見を踏まえてつくられたとは言えない制度だ。市民が司法に参加する意義は何か、そのための仕組みはどうあるべきなのか。刑事司法が抱える問題に目を向けて、あらためて議論を起こし、制度の骨格から見直していく必要がある。

(5月26日)

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