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飯田下伊那から旧満州へ「水曲柳開拓団」 元団員ら区切りの訪中

「これが私で…」。満州時代の写真を自身の会社の社員に説明する北原さん=都内「これが私で…」。満州時代の写真を自身の会社の社員に説明する北原さん=都内
 飯田下伊那地域などから旧満州(中国東北部)の吉林省水曲柳(すいきょくりゅう)へ渡った「水曲柳開拓団」の元団員らでつくる水曲柳会は23日から5日間、中国を訪れる。同会の訪中は数年に1度、40年ほど続いてきたが、高齢化が進むにつれて参加する元団員が減り、今回で一区切りとする方針。団長を務める下伊那郡上郷村(現飯田市)出身で都内在住の北原武司さん(84)は、今回の訪中参加者15人のうち唯一の元団員だ。

 北原さんは6歳の時に祖父母と両親、兄弟2人と開拓団内の房身崗(ぼうしんこう)集落に入植。馬に乗って狩りに出掛けたり、ダイナマイトを水中で爆破して魚を捕ったりと、満州には楽しかった思い出も残る。ただ、生活は現地人の犠牲の上に成り立っていたと言う。「買い物では『苦力(クーリー)』(労働者)の中国人や朝鮮人が荷物を全て持ってくれて、まるでお坊ちゃま」。中国人や朝鮮人が耕した農地を安く買い上げ、そこで農作業を行うのも彼らだった。「開拓団と言っても『開拓』を全然していなかった」

 1945(昭和20)年8月9日、ソ連軍が満州へ侵攻。逃避行が始まった。当時、北原さんの父は軍に召集され、不在。病弱の祖母と生後間もない末弟は、連れて行くことができなかった。母と自身も含む兄弟4人で出発した。

 新京(現長春)市内の日本軍施設に設けられた避難民収容所にたどり着いた。「ソ連兵に暴行される日本人女性も見た。内戦に巻き込まれて命を落とす人も多かった」。日本人数百人と共に迎えの船を待つ共同生活。マイナス30度にもなる冬を越すため、小屋の板を剥がして燃料にした。ソ連兵がいない隙に飛行場に忍び込み、食パンを取ってきたこともあった。「命懸けだった」。約1年間、収容所で暮らした。

 水曲柳会は元団員の慰霊などを目的に75年に発足。80年に初めて訪中団を送り、今回で12回目だ。現地の住民や日本人孤児を育てた中国人養父母の支援団体との交流や、子どもの就学資金の援助などをしてきた。同会事務局長で両親が元団員だった寺沢秀文さん(65)=下伊那郡松川町=は「最近は体力的に訪中が厳しい人も多い。元団員と行くのは最後になると思う」と寂しげだ。

 起業した建築設備会社で会長を務める北原さんが、同会の訪中に初参加したのは2017年。房身崗集落を訪れた際に80代ぐらいの地元住民が「北原という家を覚えていると言ってくれた」。かつて通った小学校の建物も残っていた。「工場になっていたが懐かしかった。現地に行くと分かることがたくさんある」と話す。

 今回の訪中団には元団員の孫など30代、50代の女性が初めて参加する。「若い人にも関心がある人がいる。そんな人たちに満蒙(まんもう)開拓の経験を話す機会にもしたい」と北原さん。「訪中がなくなっても語り継ぐ活動は続けたい」と考えている。

(8月19日)

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