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あすへのとびら ノモンハンの教訓 「顔」がない組織の不条理

 作家の村上春樹さんの長編小説「ねじまき鳥クロニクル」はノモンハン事件が題材だ。

 1939年、旧満州とモンゴルの境界を巡り旧日本軍の関東軍と旧ソ連・モンゴル軍が凄惨(せいさん)な戦いを繰り広げた局地戦争である。

 村上さんは40代前半、滞在していた米プリンストン大学の図書館で事件の本を読み込んだ。日本から2千キロも離れた大草原の戦場跡に足を運んでもいる。

 その体験と事件へのこだわりを紀行文「ノモンハンの鉄の墓場」に書いている。戦後日本の平和な「民主国家」も<表面を一皮むけば、そこにはやはり以前と同じような密閉された国家組織なり理念なりが脈々と息づいているのではあるまいか>と。

<曖昧な責任と決定>

 39年4月。関東軍は「満『ソ』国境紛争処理要綱」に基づく作戦命令を出した。

 要綱は作戦参謀の辻政信少佐が起案した。紛争が起きた場合、武力行使でソ連軍の出ばなをくじき越境しての攻撃もいとわない。国境が不明確な地域では現地司令官が国境を認定できる―。越権行為をも辞さない強硬策だった。

 内部には慎重な意見もあった。だが参謀には辻が兄のように慕う服部卓四郎中佐ら気脈を通じた人物が多く、異論を押し切った。

 紛争不拡大の方針だった東京の陸軍参謀本部は曖昧な態度に終始した。関東軍の作戦日誌には統帥が機能していなかったことを物語る記載がある。要綱には参謀本部から正式な指示や意見はなく「個人的に」2人の参謀から同意を得ただけだったというのだ。

 責任や経緯が不明確なまま重大な意思決定がなされた。

 日本側はハルハ河を国境と主張しソ連側はその東側にあると譲らない。6月、ハルハ河を越えたモンゴルの小部隊を日本側が撃退。関東軍は部隊を派遣、ソ連も正規軍を投入し衝突が拡大する。

 日本側は当初、戦いを優勢に進めた。だが戦力は歩兵が中心で明治時代の銃器を使っていた。ソ連軍は多数の戦車を動員。近代化した装備が威力を発揮した。

 さらにソ連はシベリア鉄道などを使い軍事力を欧州からノモンハンに大規模移動させていた。

 情報は在ソ日本大使館付武官が関東軍と東京の参謀本部に報告した。しかし関東軍参謀はソ連軍撃退に燃えているところに水を差す消極論と退けた。参謀本部も関心を示さず危機感は乏しかった。

 8月20日、ソ連軍の総攻撃が始まる。ソ連は23日にはドイツと不可侵条約を締結。ヒトラーの脅威をひとまず払拭(ふっしょく)したスターリンはこの戦いに傾注した。

 9月16日、停戦協定が成立。死傷者は双方合わせて約4万人に上った。国境線はソ連側の主張が通り日本は事実上敗北した。

 <日本軍はその先入観に合致するよう現実を歪曲(わいきょく)する傾向があった。それに反する証拠は受け入れなかった>。戦後、旧日本軍人約400人をインタビューして大著「ノモンハン」を書いたアルビン・クックス(米国)の指摘だ。

<教訓学ばず破滅へ>

 上司に諌言(かんげん)したゆえに処分を受けたり、敗北の責任を問われ自決に追い込まれたりしたのは、死地をくぐり抜けた現場の連隊長だ。本来なら独善的な判断で兵士を犠牲にした参謀こそ厳しく処断されるべきだった。懲罰的な人事は行われたが、陸軍エリートの辻や服部らはほとぼりが冷めると大本営参謀に昇格した。

 陸軍省の研究委員会は翌40年に報告書をまとめた。最大の教訓は低水準の火力戦能力の向上と指摘しつつ「国軍伝統の精神威力をますます拡充する」としている。

 補給など兵たんや情報の軽視、根拠なき希望的観測、精神主義の偏重…。学ぶべき教訓に背を向けたまま日本軍は太平洋戦争に突入し日本を破滅させた。

 村上さんは紀行文「ノモンハンの鉄の墓場」をこう締めくくっている。僕らがそこで発見するのは僕ら自身じゃないのか、と。そして「忘れないこと」の大切さを語りかけている。

 福島原発事故で東京電力は大津波に襲われる可能性を示す子会社の試算結果を受けながら対策をとらなかった。原発を推進した国は誰も責任を取らないまま再稼働や原発輸出政策を進めている。

 「顔」がない責任の曖昧な組織の不条理はこれに限らず身近にもあろう。向き合うのは私たち自身を鏡に映すことでもある。

(9月15日)

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