長野県のニュース

あすへのとびら 農業の遺伝資源 共有の財産か囲い込みか

 議論のきっかけは、2018年に和牛の受精卵や精子が中国に持ち出された事件だった。

 農林水産省の有識者会議が、遺伝資源は貴重な知的財産だと強調する中間報告をまとめた。

 肉の品質を高めた家畜遺伝子の流出を防ぐため、政府は今国会に転売や輸出の差し止めを可能にする新法を提出する方針だ。

 知的財産権の保護強化は植物でも進む。ブドウのシャインマスカットなど日本で開発した品種が持ち出され、海外で生産される例が増えたからだ。種苗法改正案も今国会で審議予定になっている。

 環太平洋連携協定(TPP)が18年に発効し、日米貿易協定も今年発効した。農産物市場のグローバル化に拍車が掛かる。

 知財保護の重要性は否定しようがない。生命の根幹である遺伝資源に収益の源泉を求める動きは、ますます盛んになっていく。

 その流れと向き合うとき、考えておきたいことがある。

<せめぎ合いの歴史>

 遺伝資源は長く、「人類共通の遺産」と考えられてきた。

 国連食糧農業機関(FAO)が主導した1983年の「国際的申し合わせ」にも明記された。

 科学者たちは、飢えをなくそうと世界から有用な種子を集め、交配し、収量が多く作りやすい品種の開発に取り組んできた。小麦の改良に成功し「緑の革命」を発展途上国にもたらしたノーマン・ボーローグ氏が有名だ。70年にノーベル平和賞を受賞した。

 一方、品種改良の世界規模の進展は、負の側面を伴っていた。遺伝的多様性の低下である。

 生産性の追求は品種の均一化を促し、世界各地に昔から伝わる作物を駆逐していった。病気や環境の変化にさらされた際に一斉に被害を受けるリスクについては、多くの指摘がある。

 98年にアフリカ・ウガンダで見つかった小麦の黒さび病が広範囲に拡大した背景には、品種の均一化があるとされる。

 均一化の代表はバナナだろう。キャベンディッシュという品種に特化され、スーパーに並ぶバナナはどれもクローンになった。

 緑の革命は、生産性と引き換えに化学肥料や殺虫剤に頼る農業をもたらしたとの批判も浴びた。

 並行して高まったのが多国籍企業の存在感だった。世界の多くの農家が、資材や種子を供給する大企業を無視できなくなった。

 多国籍企業は各国で知財権の取得に乗り出し、遺伝資源の囲い込みを進めていった。

 やがて発展途上国に、先進国の企業に自国の遺伝資源が奪われている、との不満が広がった。

 批判を受け止めた科学者らが取り組んだ一つが、遺伝資源の貯蔵庫「ジーンバンク」だった。北極圏の永久凍土を利用して造ったノルウェーの施設が最大だ。

 均一化による危機が到来したとき、貯蔵された遺伝資源を取り出して農業をやり直す。「農作物のノアの箱舟」と呼ばれる。

 だが箱舟はあくまで、危機に備えた保険に過ぎない。

 「人類共通の遺産」という理想は事実上、崩壊していた。

 生物多様性条約は1993年、そんな状況下で発効した。遺伝資源から得る利益の公平な分配と持続的な利用を目指す条約だ。

 品種改良の進展がもたらした豊かさと弊害。生産性と生物多様性の二律背反とも言える関係に、どう折り合いを付けていくか。

 世界はまだ、そのせめぎ合いを克服できていない。

<地方からの問題提起>

 いまの日本政府に、そんな葛藤は見られない。

 2018年春、稲や麦の種子の生産を都道府県に義務付けていた種子法が廃止された。風土に合った品種を地方で独自に開発し、生産性と多様性のバランス追求を公的に支えた法律だった。

 廃止理由は、民間企業の参入促進による競争力強化。公的管理がせばまることの本質的な議論はなかった。

 知財保護を定める種苗法の改正にも、市民団体から反対の声が出ている。品種の知財権を強めるため、個々の農家による自主的な採種を制限しかねないからだ。

 近年、遺伝子を直接改変するゲノム編集の技術などで、品種改良のペースは速まっている。多様性の行方はますます、資金力と技術力が握ることになろう。

 種子法廃止後、地方では代わりに条例を設ける動きが広がり、昨年末までに15道県が制定した。

 長野県の条例は今年4月に施行される。県内各地に残る伝統野菜の保護を打ち出した。種子の貯蔵も充実させていく。

 遺伝資源を地域で共有財産として保存し、活用する。知財を巡る国際的な攻防と比べれば、経済的な効果はささやかかもしれない。だがその意義は大きい。

(2月2日)

最近の社説