TOP2014年03月辛い大根汁・せんぎり そばと大根(2)

 なぜか、そば(そば切り)と大根は、古くから相性がよかったらしい。江戸でそば切りが普及し始めたころには既に、いい組み合わせにされていたという。

 当時の文献としては『蕎麦全書』が知られる。寛延4年(1751)脱稿、友蕎子の著書だという。現代語訳の活字本が出ているので、そこから引用してみる。(現代語訳『蕎麦全書伝』 平成18年発行、ハート出版。著者=日新舎友蕎子、校注者=新島繁、訳解者=藤村和夫)

 それによれば、蕎麦の役味(薬味)としては、大根のしぼり汁の辛いのがいちばん向いている、とされる。味噌やたまり醤油を使った汁に大根のしぼり汁を加えるのがいい、という。それもピリピリと辛いのがよろしい、と。大根の種類は多く、赤山大根(今の埼玉県川口市)、うじしり大根(埼玉県行田市)もいい、これは鼠(ねずみ)大根と同じものだ、とも触れる。こうしたことは、『蕎麦全書』が元の文献として引用する『本朝食鑑』(元禄8年=1695年板)にも登場する。――恐らくは今と違って、辛い大根おろしは、かなり汁が出たもののようである。

 元禄と言えば、松尾芭蕉が木曽路から更級郡の姨捨山の月見に訪れたのは元禄元年(1688年)。その折に詠んだ句に「身にしみて大根からし秋の風」がある。私などこれは、きっと蕎麦を食べた時の辛いオロシ大根だったのではないか、と想像してしまう。場所は木曽か、本山宿あたりか、姨捨山近辺か。それとも帰路の十六夜の坂城(坂木)の辺か。当時の大根の味から考えれば、どこにも辛味大根はあったと推測していいような気がする。

 徳川時代中期の天明6年(1786)3~8月(旧暦)に北信濃を訪れた、伊勢内宮の御師(おし。使いの者あるいは宗教的先導者)・荒木田久老の「五十槻園旅日記」には、蕎麦と大根の組み合わせが出てくる。善光寺近くの宿から、周囲の農村・山村をめぐって初穂料などを集めてまわったのだが、久老の蕎麦好きが知られていて、各地で蕎麦のもてなしがあった。

 5月には善光寺平の村々をまわる。5月末から半月ほど戸隠方面の山村に。この時期になれば、保存しておいたソバも味が落ちてきていただろうが、村々では工夫して毎日のように「そば切り」にしてもてなしたようである。ここでは「夕飯そば切、風味よろしく、みなみな大食」「蕎麦切、風味よろし」などとほめる言葉が加わる。7月上旬には「里在回村」ということで、宇木村・押鐘・山千寺・田中・上野村・吉田村・桐原村・返目村などをまわった。やはり蕎麦(そば切り)の振舞が多かったが、大根について違う感想が述べられる。1つは檀田村・押田村・田子村で、「夕飯そば切、今日蕎麦三度大根汁なし、一向食かたし」とあり、大根汁が無かったので食べにくかったという。もう1つは東条で「そば切 大根汁甚(はなはだ)よろし」とある、早生の大根を作っていたのだろうか。(引用は『新編信濃史料叢書』より)

 少し後の文化年間のころの様子としては、『続膝栗毛』(文化13年=1816年刊行)で十返舎一九が中山道本山宿で詠んだという狂歌、「本山の蕎麦名物と誰も知る 荷物はここにおろし大根」がある(大田南畝=蜀山人の作とも伝える)。明らかに蕎麦とおろし大根を組み合わせている。本山宿は以前から、蕎麦切り発祥地だとする説があって有名だったようである。本陣の休泊帳には寛文10年(1670)から「そば切」の献上の記録があるという。(引用は『塩尻市誌』より)

 こうして、信州の街道筋や農山村に早くから蕎麦(そば切り)が登場していた。いくつかの文献には、そこに大根との組み合わせが普通にあったように書かれているが、実際の農民や町民に親しまれていたのかどうかはよくわからない。大根の品種や味についても、定着ぶりがどうだったかはほとんど知られていないようだ。

     ☆

 大根オロシの他に、「せんぎり(せん)」も蕎麦との組み合わせで登場することがある。

 私の個人的な体験話では――南佐久の旧家に若いころ(昭和初期)過ごした女性の手記に、そば打ちの上手な叔母が、皆さんが集まった機会に振る舞った、その折にはいつも、大根の「せんぎり」をつけたという記事があった。蕎麦を食べ終える時に出し、もう1枚どうぞ、と勧めたという。食欲増進の意味があったのだろうか。

 私の子供のころは、大根やカブ(蕪)を「せんぎり」にして食べることがよくあった。「せんぎり」というより、「せんぞ」と呼ぶことが多かった。それは「せんぞつき」という特有の道具で簡便に作る。押しこくるような、突く動作である。だから今でも老人に聞くと、「せんぞつきでついた」と答える人もいる。南佐久の旧家の蕎麦に添えた「せんぞ」は、「せんぞつき」で突いたものではない、あれは角が丸くなっていけない、大根でもきちんと角が立つように、包丁で丁寧に切ったものを使った、とも聞いた。いかにも蕎麦にまつわる話らしかった。今もその伝統が続いているのかどうか...。

 徳川時代の文献にも大根の「せん」「せんぎり」が蕎麦の話題に出てくることがある。

 「一等次なる物には、二八、二六そば処々に有り。浅草茅町一丁目に亀屋戸隠二六そば、和泉町信濃屋信濃そば、大根のせんを添へ遣す。」(『蕎麦全書』)ここで言う「大根のせん」がどのような状態で出されたのかはよくわからない。どことなく信濃のそば屋の特色と見られていたようにも受け取れるのだが。

 今も関東地方のいくつかには「大根そば」なるものがあるという。「せんぎり」を使うらしい。関東に隣接する佐久郡ならば、「せんぎり」の風習がそのまま地続きで伝来していたとも考えられる。今は長野県内でも「せんぎり」を添えて出す店があるが...。

 これとは別に、奥信濃で稀に見られる「はやそば」は、一種の「そばがき」のようなものだが、大根の「せんぎり」を入れる。ソバ粉のぐにゃりとした感触に「せんぎり」のシャキッとした歯ざわりが楽しい。長野県内(中部地方)に広くあった食べ方のような気がするが、現在はほとんど聞かない。

     ☆

 10年ほど前だろうか、信州では辛味大根ブーム、おしぼりそばブームがあった。

 そのハシリと言っていいだろうか、ずいぶん前に下伊那郡下條村の「親田辛味」という大根に出会った。丸い形の大根で、すりおろすと非常に辛いものである。地元でも蕎麦の薬味にいい、と言われていて、何度か試してみたが、私にはなじまなかった。

 それでも当時の「激辛ブーム」の中で注目され、首都圏のそば屋などでうけて、ブランドとして確立し、値段も相当に高くなった。最初から私が聞いていたのは、この親田辛味は、他の土地ではこの辛さ、旨さは出ない、下條村の一部の場所だけがいいのだと。こうした特産物ではよく聞く話である。

 それでも、さすがというべきか、目はしのきく人はいるもので。松本郊外のそば祭りへ行った時に、親田辛味とそっくりな丸い大根が売られていて感心した。名前は別だったが、姿も辛い味もよく似ている。種が門外不出とも言われていたようだが、あっという間に真似する人が出てきたのだった。それ以降、気をつけて見ていたら、同じような丸い辛い大根の種が売られるようになって。まだ「品種登録」がうるさく言われない時期(年代)だったように思う。

 そして全国的に湧き起こった「激辛ブーム」。辛ければいい、と言わんばかりの流行だった。これに呼応するかのように、信州で「おしぼりそば」が大いに盛んになる。北信濃では「辛味大根コンクール」が開かれたりした。親田辛味だけでなく、各地の地大根、辛い大根が評判になり、今も地大根ブームが続いているようである。

     ☆

 昨秋からこの冬にかけて、東信・北信のいくつかのそば屋で、「おしぼりそば」を食べる機会があった。どこでもかなり辛い汁であり、また甘さも十分にある店が多かった。

 それでも、総合的な旨さが乏しい店もあった。「あまもっくら」の本当の良さは、寒い時期にいつでも味わえるものでもなさそうだと感じた。

 徳川時代の、辛い大根(汁)とはどんなものだったのか、もう少し探求を続けたいと思う。

2014年3月 4日掲載

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