TOP2014年10月佐久の蕎麦(2) 古くから有名

 信州の蕎麦は、早くから有名だった。

 その原因は、中山道の宿場宿場で提供され、名物として早い時期に有名になったからだろう。「そば切り発祥の地」などと呼ばれる場所もいくつか名乗りを上げていたほどである。よく知られているのは、中仙道の本山宿(塩尻市)と、甲州街道方面の天目山(山梨県甲州市)である。

 そもそも「そばきり」と呼ばれた、今のような細長い蕎麦が作られるようになったのは、中世であろうか。文献で見えるのは戦国時代だったらしい。一番古くに登場する文書は、木曽・大桑村の定勝寺に残るもの。20年以上前に、長野市の研究者が、以前に記録され活字になっていた古文書の中に、「ソハキリ」という言葉が出てきた、と発見して公表したことから知られるようになった。天正2年(1574)、お寺の修理作業の記録に出ているという。

 今の「そば」は、初めのころは「そば切り」と呼ばれることが多かったらしい。関西方面のいくつかの文献に「そはきり」を暗示する言葉が出て来るとされ、ソバ粉の食べ方として麺状にする調理方法は関西から始まったもののようだ。

 この年代の木曽路は、けわしい山岳路だったから、旅人の往来は多くはなかっただろう。それでも関西方面で発明されたと推測される「そば切り」は、もう木曽の山中のお寺に広まっていたのだ。寺院のルートが普及の1つの形だったのだろう。

 その後、中山道(中仙道)が整備されたのが慶長7年(1602)で、以降は東海道と並んで関西と江戸を結ぶ重要な街道になった。旅人の往来が増えて、宿場宿場に飲食店が発達。街道筋の名物として蕎麦が普及する。恐らくは、街道に接する農村でソバ栽培が多くあり、産地直送の風味豊かな蕎麦が提供されることで、美味しい、また名物だ、と賞賛されるようになったのだろう。あるいは、東海道でもそば屋が多く誕生したらしいが、いわば外食産業が発達する時期に蕎麦が普及していった、とも考えられる。

 一方で、江戸という当時は世界的な大都会だった町で、うどんと蕎麦が町民にもてはやされるようになり、需要が高まった。味の比較もいろいろ言われたことだろう。物資の交流が広まる中で、江戸周辺から少し遠くまで、材料を集めてきたらしい。そして一番の有名産地が信州・佐久の川上村だということになった。その評判が早くから定着していたようである。川上村は千曲川の源流に位置し、標高が高いので農作物は雑穀が多かった。明治時代に数村が合併して出来た村であるが、江戸時代にも漠然と川上村と称することがあったようである。

 しかし、江戸の粋人が、美味しい蕎麦を求めて川上村まで分け入り、堪能したという話ではない。その点は、江戸に近い深大寺の蕎麦が、食べて美味しいという消費地の評判だったのとは違う。つまりは、材料供給の地として川上村、ひいては信州が優秀だ、と認識されていた、というわけである。

 川上村の蕎麦(ソバ粉)が優秀だったとされるのは、いくつかの書物に書かれた。要約すれば次の『川上村誌』(平成21年刊)のようになろうか。

 <そばの食文化は多彩であり、中でも信州蕎麦の名声は特に高く、元禄十年(一六九七)の「本朝食鑑」には「蕎」(そば)は東北に最も多く「武・総・常ノ地多ク、之ヲ出シテ佳ナリトイヘドモ、尚、信州ノ産ニオヨバザルナリ」とされており、信州そばの卓越性が認められている。元禄以降は川上・戸隠・相木の名が出るとある。
 明和四年(一七六七)吉沢好謙の「信濃地名考」の「蕎麦生」に「――前略――知らぬ都会の地では、更科が名産地であったように信じられているけれども、全くは、川上を佳産としている――後略」と記されている。>

 川上村からは、江戸前期の寛文~元禄時代(1660年代~90年代)には甲府の方へ雑穀、特に蕎麦を多く移出していた記録が残る(『川上村誌』)。後に甲州から太平洋へ抜ける富士川の改修が行なわれ、川上村の蕎麦は「挽抜(ひきぬき)」の状態で江戸方面まで輸送し取引されたという(同)。佐久の農民が大坂へそば屋を出したのも、富士川から運んだ川上村産の蕎麦だった。

 その点、現在は中国から輸入する蕎麦の多くが「丸抜き」の状態で船で運ばれるのと似ているような気もする...。

 川上村の、ひいては佐久地方で産出する蕎麦(ソバ粉)がほめられたのは、古くから、蕎麦の味が材料によって大きく変わることが皆の知識になっていたからではないだろうか(加工技術はまた、違った評価があった)。こうした背景を考えることによって、川上の、また信州そばの大きな特色が浮き彫りになるように思う。

2014年10月15日掲載

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