TOP2014年11月佐久の蕎麦(3) 農民が大坂へ出店

 南佐久・川上の蕎麦が有名だったのは江戸での名声であるが、広く全国的に認められていたようである。その名声を当て込んでか、佐久の農家が大坂にそば屋を出した。幕末の天保6年(1834)のことである。

 この「信濃屋」あるいは「信州屋」という店については、蕎麦の歴史を調べる人には早くから有名だったらしい。
 例えば植原路郎氏は「蕎麦辞典」(平成14年発刊、東京堂。初版は「そば事典」として昭和39年柴田書店刊)という本の中で、次のように紹介している。

 「川上蕎麦 ...川上蕎麦を山越しに鰍沢へ運び、この流を利用して岩淵から大坂心斎橋筋へ進出させた天保六年の出来事は、蕎麦史上特筆すべき事柄である。」
 「水野中務太夫保高 ...中務、季鷹の会合が川上の蕎麦を大坂へ持っていって売り出そうという計画にまで発展した。そこで天保五年企画が整い、天保六年大坂で店舗借入れも順調に進み、天保九年まで営業した...」
― と開業の経過を書く。

 植原氏が見たのは神官水野氏(佐久郡落合村生まれ=現在佐久市)の資料で、親しくなった京都加茂社の祠官季鷹と相談してこの計画を推進したという。

 地元の資料としては、計画に参加した下県村(現在佐久市)の農家に残るものが活字になっている(「長野県史 近世資料編第二巻」)。そのタイトルは「天保六年正月 下県村木内家等信州蕎麦大坂店開業留帳」とされ、当時の参加メンバー、出資金、運営方法などが記されている。

 これについて『佐久市志』歴史編(三)近世に簡単な紹介がある。

 「信州屋蕎麦店 天保六年正月、下県村の木内勘右衛門・...八人は、かねて計画をすすめていた大坂の蕎麦店『信州屋徳蔵』の開店を正式に議定した。...信州屋蕎麦店計画の大要はつぎのようであった。
 ・大坂心斎橋筋南出町北入に開業する。蕎麦店の名称は『信州屋徳蔵』とする。
 ・元手金は当面七二両とし、これを一二両ずつ六人で出金する。...
 ・使用する蕎麦は川上産上物にかぎる。
 ・蕎麦荷は甲州をへて清水港に送り、ここで貫目改めをする。
 ・清水港の船問屋山本長兵衛方から積みだし、大坂尼ヶ崎町河内屋勘四郎方へ送るが、一船に一〇駄以上は積まない。
 ・『信州屋徳蔵』は連中八人のものであるから、八人の合議で運営する...
 そのほか、飛脚屋・書状世話方・京伏見の定宿など...詳細に決めて事業にはいったのである。...
 この事業のその後については明らかでないが、翌七年の佐久地方は大凶作で、とくに川上村など山間部の被害が大きかった。そのため蕎麦の調達に窮し、店は永続しなかったのではないか。‥」
 これについて「川上村誌」も紹介する(通史編第七章江戸時代の農業と林野・鉱山)。
「■大坂蕎麦店の開業 ...信州川上挽抜蕎麦は甲州鰍沢まで馬で運び、富士川通船を利用して清水港経由で海路大坂に運ばれた。大坂心斎橋での開業は、天保六年(一八三四)六月『信州川上手打そば』の幟を舟に立てて川筋を進め大変な評判であったといわれた。舟で食べる『そば』は一人前銀五匁(一両が銀目にして、四〇~五〇匁)であった。」
 「川上村誌」は続いて、「長野県史」資料の丁寧な解読を掲載している。

 植原路郎氏の「蕎麦辞典」によれば、「...(開業の)引札にもあるように、『ぼんぼりを目印に御用の程を......』というのだから、夏は納涼客を目あてに、川筋を『信州屋でござい』と触れて回ったことと思われる。」と想像している。当初は評判になったのだろう。

 その最後については、「天保九年まで営業したが、大塩平八郎の乱、強盗による被害などの影響を受けて閉店したというのが大体の経過である。」とも記す。短い期間ではあったが、大坂に信州蕎麦、川上蕎麦の名声を広めた快挙であったといえよう。

 大坂でのそば屋開業が、地元佐久郡の人々にどのような影響を及ぼしたかは不明である。しかし、農村に根を張っていた有力農民が、蕎麦で商売に乗り出すという企画は、蕎麦自体が広く普及していたことを推測させる。つまり、米作農家であっても、自家用の畑から、あるいは周辺の農山村から蕎麦を仕入れて食べるのが普通にあったのではないか、と。

 傍証とすれば、例えば古川貞雄著「村の遊び日」(1986年、平凡社選書)には、遊び日(村の休日)について、江戸時代の佐久の農民の食べものの分析がある。中に蕎麦とか麺類、あるいは粉ものについての記述があって興味深い。農民一般の話ではないが、富農が雇う使用人の食事の記録には、たとえば「米はハレの日の食物か」と題して、江戸時代も一般農民が白米から麺へ、などの好みの傾向の変化が読み取れる、とする。正月に蕎麦を供する資料なども出てきて、食の感覚の変化が面白い。

 蕎麦や麦切り(うどん等)などの麺類は、佐久地方、あるいは上田地方にまで、富農階級の間に慣れ親しむ食品に成長していったと推測すると楽しい。「米が特別の主食」という固定観念をくつがえす貴重な証言であろう。

 こうした傾向はおそらく、広く東信濃の農村部にあったとのではないか。江戸や主要街道からの人や文物の流入が激しく、都会人の趣味食だったにちがいない蕎麦が、信州の農村に広がっていた実態が暗示されているように思う。それは北信地方に、さらには中信や南信にも相当に影響していたはずであるが、その解明はまだ進んでいないような気もする...。

2014年11月19日掲載

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