TOP2014年12月佐久の蕎麦(4) 「きりもくさ」の記録

 古い時代の蕎麦(ソバ)の食べ方については、江戸の「そば切り」が比較的詳しく知られているだけで、他の地方については文献が少ない。長野県においても同様で、特に農村部での様子は記録がほとんど無かった。

 そうした中で、小諸地方の幕末ころの蕎麦について、『きりもくさ』という書物に具体的に書かれていて、たいへん参考になる。

 『きりもくさ』は新編信濃史料叢書第十巻に収載。その解題では、

<本書は小林四郎左衛門(葛古)の安政四(一八五七)年霜月十四日の著で、その内容は文化から安政年間にかけての頃「きもの」「のみくひ」「すまゐ」「花の色」の四項からなり、著者が五・六十年間に亘って見聞してきた佐久地方の庶民の人情・風俗・生活様式などの移り変りを記録している。...>

などとされる。「きりもくさ」とは「きりもぐさ=切艾」で、「灸点用の艾を紙で巻き、こまかく切ったもの」と広辞苑に載る。たまにはお灸をすえて、のぼせないように、という意味であろう。四郎左衛門は現在の小諸市八幡に生まれ、名主職のかたわら家塾を開いて多数の子弟を教育したという(同書)。食べものについては「のみくひ」(飲み食い)として、冒頭に以下のように記す。(かっこ内は読み方、宛て字など)

<食は米より貴きハなきに、近頃蕎麦切を頻(しきり)に賞味す、是ハ酒のもてなし厚き故の事か、又ハ人の腑(はらわた)変りし事か、おれ(俺)か十八九頃迄ハ仏事いとなむにも、酒なしに逮夜(たいや)は温頓(うどん)とか、煮かけとか、翌朝は芋汁とかにて、宵朝ともおたちといふて、客の困るほど強(しい)たる事なり、其頃迄は蕎麦を卑しく扱しと見えて、お袋の友たち衆来ると、蕎麦煎餅(せんべい)か、蕎麦焼餅か、寒い時にはそばがきかを出し、秋過にハ下男・下女迄むじな(貉)蕎麦とて味噌汁の中へせんきり(繊蘿蔔)を入て煮たて、蕎麦粉をかき交(まぜ)て喰し事をりをり(折々)なり、今ハ黒粉にても、蕎麦切にうつて無造作にはせず、前にいふ文化八九年頃より小麦をいやしめ温頓にかけハ馳走とせず、婚礼などにも縁の長く続くやうに蕎麦をあげます抔(など)といふて、酒のあとへは蕎麦切を出す事半(なかば)に過たり、 >

【注】俺が十八九頃...文化七八年ころ(1810、11年ころ)。逮夜...葬儀の前夜。温頓...饂飩、うどん。にかけ・煮かけ...煮掛け(麦切りなどを湯じて食べる流儀)。せんきり...大根の繊切り。黒粉...不明(ソバを皮=殻ごと挽いた黒っぽい粉をさすか)。

 ここで目につくのは、ごちそうとしての蕎麦食が、米食やうどん等の小麦粉食に替わって増えてきた様子。蕎麦の方を好むというのは、嗜好の変化としては何を意味しているのだろうか。仏事にも婚礼にもそば切りを賞味するようになった、と記すのも興味深い。酒のもてなしが増えたからか、と理由を上げている。

     ☆

 これと同じ時期、あるいはこれより少し前の時代の話として、佐久の豪農・神津家(赤壁の家)の古文書には、使用人の休日のご馳走に、米食が減り、粉食(米粉、小麦粉、蕎麦)が増えてきた、という記述が見られるという。これを指摘しているのは、古川貞雄『村の遊び日』(平凡社選書1986年刊)。主には信州の村々の、休日の様子を丹念に調べて書いた本だが、休日の食べものについても詳しい。

 たとえば文久二年(一八六二)の文書には、正月一日「朝=蕎麦切 昼=ひや飯 晩=白炊」二日「朝=にかけ 昼=ひや飯 晩=白炊」三日「朝=麦切 昼=ひや飯 晩=白炊」とある。また同じ村の別の神津家の寛政六年(一七九四)の記録では、正月一日「朝=祝蕎麦 夕=餅」二日「朝=祝麦 夕=飯」三日「朝=祝麦 夕=飯」などとあるという。このほか、冬から夏にかけて、休日のご馳走として、蕎麦・黒粉蕎麦・麦切などの麺類、草餅・ねじなどの米粉食、饅頭などが多く登場する。

 この寛政から文久にかけての変化について著者は、次のような分析をしている。

<遊び日の食事についての変化として、(1)増加したものに、蕎麦(三食→四食)・麺類(〇食→四食)・赤飯(三食→四食)・饅頭(〇食→三食)・小豆飯(二食→三食)・小豆粥(〇食→一食)がある。(2)減少したものに、白炊き(米の飯)(二三食→二一食)・餅(一〇食→七食)・繭玉練り(二食→一食)・ねじ(五食→一食)がある。(3)変化していないものには、麦切(四食)・雑煮(二食)・米粥(二食)がみられる。かつて米飯・餅・ねじなどが遊び日の御馳走の中心であったのが、麺類・饅頭・小豆粥などが新たに加わったほか、総じていちじるしく多様化かつ良質化する趨勢にあることが知られよう。>と記す。

 この史料にも「黒粉蕎麦」が出てくるが、具体的にはわからない。また「ねじ」は今は上田市真田町の道祖神行事に登場する、米粉で作った一種の餅菓子だが、もとは広い範囲でさまざまな穀類の粉で作ったものらしい。米だけが特別なご馳走ではなくなってきた江戸期の農村の状況がほの見えるような記事である。その時期に、蕎麦も大きな比重でご馳走になってきたらしいのである。

 別のところで筆者は、

<...「今」は寛政前後の時点である。米の飯が、奉公人にとっても必ずしもめずらしい御馳走ではなくなってきつつあるような、農民の食生活、ひいて経済生活一般の変化を反映してのことにちがいない。>と分析する。

 あるいは、米について日本人が特別な気持ちをもって作り食べてきた、とする柳田国男の説にも小さな疑問を呈する。


<...近世後期から幕末へむけて顕著になりまさる食生活の良質化多様化のなかで、遊び日(ハレの日)の食事に、米の飯の増加ではなく逆に、米飯・餅から麺類・麦切・饅頭・蕎麦等への変化がはっきりみとめられたことは、そのかぎり柳田の認識に抵触する。...>

 現代は蕎麦を旗印にした町起こしが盛んだが、地元の住民が蕎麦を好むかどうかが一つの決め手になるような気がする。そうした意味でも、蕎麦が、米がとれない貧しい山村の食べものだった、という偏見をぬぐっておく必要があると思う。

     ☆

 明治時代になってからのことは、島崎藤村の『千曲川のスケッチ』に少し描かれる。

<蕎麦はもとより名物だ。酒盛の後の蕎麦振舞と言えば本式の馳走になっている。それから、「お煮掛」と称えて、手製のうどんに野菜を入れて煮たのも、常食に用いられる。...>(一ぜんめし)

 これは小諸駅近くの「揚羽屋」という飯やの話の中に出てくる、この地方の風習に触れた文章である。「きりもくさ」の時代からはだいぶ経っているが、同じような雰囲気を感じる。

 ここで言う「蕎麦振舞」がどんなものかはよくわからないが、既に宴会の本式のご馳走として定着していたのである。そしてうどんの「お煮掛」が常食だったという。

 「お煮掛け」とは、事前にゆでておいた麺を熱い汁の中で湯じて食べるもの。「おとうじ」などとも呼び、信州では、いや中部地方全体で以前はよく食べたものとされる。独特のトウジカゴを使うのも特色だ。細かくは、お湯で湯じるところも多かったらしいが、場所によって微妙に異なるやり方があったはず。また、「煮掛け」とは、汁の具(「おこう」などと呼ぶ)をわざわざお椀に盛った麺にかけることもした、その傾向を指す場合もある。本来は家庭の、囲炉裏を囲んだ食べ方で、主婦の采配が生かされる場だったとも聞いた...。

     ☆

 なお、『きりもくさ』には他の料理や調製についても触れる。

<おれがをさない(幼い)時分には、かふ(蕪)するといふて、蕪をこまかに刻み、其中へ粟(あわ)を入れて煮立かき廻し喰し事ありしが、凶年は知らず、今ハ喰ものありやなしや、...>

 蕪を刻んで煮立て、そこへ粟を入れて煮たという。この料理は、粟でなく雑穀の粉を入れた、不味いものだった、と北信濃で聞いたことがある。これらも一種の「けえもち」なのだろう。蕎麦が多くとれた地方では、ソバ粉を入れた「けえもち」が多かったという。

<昔は搗(つく)挽(ひく)とも喰料だけハてまへ(自分)てまへにてせし故、水車ハ大谷に番助・富之助と二軒ならでハなく、......五拾年の間に九軒殖たり、おれがをさない(幼い)頃は麦搗唄とて......唄をうたひて麦や黍(きび)を搗し、石臼も家毎に挽て臼挽唄知らぬものなく、......今ハ絶て石臼の音も唄もきかず、箱篩(はこぶるい)は蕎麦粉、麦粉の入物となり、篩は破れて柱の釘にかゝる、石臼はあれと団子の粉かきな粉の用を弁し、大麦を挽わる時と蕎麦を挽抜時ばかり一世一代の曠業をなす、>

 小諸の町に近い農村部で、水車が発達してきて、各自の家でやっていた粉挽きがほとんどなくなった、という。ただし、団子の粉、黄粉は石臼でやったらしい。また大麦を挽き割る(「挽き割り」を作る)のとソバを挽き抜く時も自家の石臼でやったという。これらは後の時代も同じ傾向が続いた。つまりソバなどは家で挽き抜きを作り、水車で製粉する、というやり方がかなり広く普及していたらしい。また挽き抜きを遠方へ送ることも普通に行なわれていたようである。

 こうして、江戸時代後期から明治時代にかけての農村の蕎麦食の傾向が、おぼろげに伝わってくる。信州の農村全般に言えることとは断定出来ないが、少なくとも佐久地方での位置づけがよくわかるような気がする...。

2014年12月22日掲載

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