TOP2015年01月佐久の蕎麦(5) むじなそば・はりこし

 前回触れた『きりもくさ』の中に、「むじな蕎麦」が出てくる。この「むじな蕎麦」は、言葉として、また食べ方として、たいへん面白い。聞き慣れないが、書き方から見て、上等な食べものではなかったように受け取れる。「むじな=貉」という言い方には、そんな意味がこめられていたのであろう。

 『きりもくさ』のその部分は......(かっこ内は読み方、宛て字など)。

<其頃迄は蕎麦を卑しく扱しと見えて、お袋の友たち衆来ると、蕎麦煎餅(せんべい)か、蕎麦焼餅か、寒い時にはそばがきかを出し、秋過にハ下男・下女迄むじな(貉)蕎麦とて味噌汁の中へせんぎり(繊蘿蔔)を入て煮たて、蕎麦粉をかき交(まぜ)て喰し事をりをり(折々)なり、...>

(「其の頃」とは、文化七、八年ころ=1810、11年ころ。蘿蔔=らふく=大根)。

 「むじな蕎麦」とは、味噌汁に大根の「せんぎり」を入れて煮る、そこへソバ粉をかきまぜて煮立て、食べる、というもの。急いで作るのには向いているのがわかる。これが単純に間に合わせの食事、というだけでもないのは、他の事例にも出てくるような気がする。

 たとえば、ソバ粉に限らないが、穀物の粉を野菜の煮物の中に溶かしいれて煮る料理は、全国にあった。一般的には「けえもち」などと呼ばれるようだが、「掻き餅」なのであろう。単純な料理で、内容によってはかなり淋しい味だったと聞く。長野県下でもあった、山村の料理として何度か聞いたことがある。北信濃の一部では「ねっとく」という名前だった...。

 ここに言う「むじなそば」は、やはり少し低級な、という意味あいがある。つまり、旨いものではないが、当座の腹の足しになる食べもの、という。しかし、山村ではこうした「けえもち」の類いが夕飯だったとする話も多くあったようなので、当座の、というだけではなかったかもしれない。

     ☆

 10年ほど前だったか、ある山村のイベントの折に、これが「むじなそば」ですよ、と見本のように並んでいることがあった。直前の講演会が長引いて、鍋に作った「むじなそば」は乾いて、鍋の底では少し焦げていた。珍しいものがあるなあ、と私は面白がって食べてみた。たぶん、名前の由来のように、旨いものではないだろう、と思いながら。かじってみてびっくり、意外に美味しい。え、どうして?と思ったのだが...。

 たぶん、味噌汁などの味つけがあり具もまじっている。その「けえもち」状態のものを、鍋などで焼くと、相当に食べやすくなるらしい、とわかった。いや、かなり旨い食品になるのか、と感心した。

 それで川上村の「はりこし」を思い出したのだった。藤村は具体的には書いてないが、あの「はりこし」はきっと、囲炉裏の灰の中で蒸し焼きにしたのではなかったか。そうなると、ソバ自体の旨さが凝縮されて表に出てくるのかもしれない...。

     ☆

 川上村の蕎麦が古くから有名だったためかどうか、島崎藤村は、小諸義塾に居た時の明治30年代、南佐久地方を訪ねて、「はりこし」と呼ばれる、一種の焼餅について記している。

<...ここから更に千曲川の上流に当って、川上の八ケ村というのがある。その辺は信州の中でも最も不便な、白米はただ病人に頂かせるほどの、貧しい、荒れた山奥の一つであるという。>

<君はまだ「ハリコシ」なぞという物を食ったことがあるまい。恐らく名前も聞いたことがあるまい。熱い灰の中で焼いた蕎麦餅だ。草鞋穿(わらじばき)で焚火に温まりながら、その「ハリコシ」を食い食い話すというが、此の辺での炉辺の楽しい光景なのだ。>(『千曲川のスケッチ』山村の一夜より 岩波文庫)

 藤村がこれを書いたのは、明治30年代。鉄道はまだ小海線が出来ていない。小諸義塾の学生たちと一緒に南佐久方面へ旅行した折の見聞である。ここに登場する場所は、今の南佐久郡南牧村のことであろう。南牧村での話として、千曲川上流の川上村の話を紹介したのだった。南牧村の千曲川沿いには水田があり、米がとれた。明治時代半ばといえば、都市部では白米を食べる市民が増えていて、米こそ富裕の象徴のように考え始めた、そんな時期のような気がする。藤村の書き方にもその気配が濃厚である。

 また、「はりこし」が、来客にイロリ端で振る舞う食べものとして紹介されていて、必ずしも貧しい食べものだったと書いているわけではない。藤村が実際に食べたとして、それなりに旨い食べもの、と受け取ったようにも見える...。なお、普通の来客などでは、ワラジや藁靴(わらぐつ)だと、脱がないでイロリに足を突っ込むのが普通だった。濡れていれば乾かすこともできる。そうした中での「はりこし」の味だったわけである。

 <翌朝私たちは野辺山が原へ上った。...>(高原の上)とあるので、南牧から川上へは行かなかったのであろう。そして甲州側へ下り、富士山を眺めている。

 この「はりこし」について、私は『おやき・焼餅の話』(昭和59年銀河書房刊)で次のように書いた。

<現在の川上村ではハリコシはほとんど作られていない。...そして今川上村は、高原野菜の大産地として、長野県下でも有数の裕福な村となっている。

 同じ南佐久郡南相木村・北相木村には、柏の葉で包んで焼く「カシッパ焼き」があることが、長野県教育委員会の『味の文化財』に報告されている。柏の葉で包むことは各地にあったが、今も続けられているのは珍しい。...>

 北相木村の焼餅は、小麦粉に味噌、ネギ、ミカンの皮、唐辛子などをまぜてこね、柏の葉に包んで焼く。食べてみたらかなり美味しいものだった。半分焼けた状態の柏の葉も、あまり苦にならない。こんな作り方は各地にあったと思うが、今はほとんど見られなくなった。

     ☆

 「はりこし」については後に、『信州の郷土食』という本を編集していて出会うことができた。

 この本は昭和60年(1985)に長野市の銀河書房から発刊された。長野県商工会婦人部編で、県内各地の商工会の婦人部の皆さんが原稿を書き、それをまとめたものである。「郷土食」という言葉がまだ普及していなくて、「郷土料理」などという呼び名が一般的な時代であった。私は終戦間際に出版された『本邦郷土食の研究』という本が面白かったので、「郷土食」という呼び方をその時に使わせてもらった。

 川上村商工会婦人部から出てきた郷土食の中に、「はりこしまんじゅう」があった。

<椀の中へ、ソバ粉・味噌・ネギなどのみじん切りを入れて、水で溶く。椀の内側に少し粉を打ち、溶いたものをお手玉のようにほうりあげながら、椀の中で丸めてゆく。温めて粉を振っておいたホーロク鍋の中へ入れ、平たくする。両面に少し焦げ目がついたら、焼けた灰の中に入れて蒸し焼きにする。現在ではオーブントースターやフライパンなどで焼かれている。>

<川上小唄の中にも、「客の顔見て 梁越まんじゅう 馬も顔出すいろりばた」と、このはりこしまんじゅうが唄い込まれている。...>

 また、南牧村商工会婦人部からは「ソバほうとう」の記事が寄せられた。

<...いろいろと工夫され、ソバ切りとして普通に食べるのは無論のこと、ソバがき・はりこしまんじゅう・せんべい焼き等々、こびれ(おやつ)にまで及んでいる。わけても、ソバほうとうは、主食兼副食として、実に合理的な食べ物である。>

 このように、ハリコシは、手軽なごちそうに近い食べものだったようである。私もソバ粉を丸めてイロリの灰の中で蒸し焼きした焼餅が、素材が良いと相当に旨いものになるのは、県内の各地で経験した。味の面からも、ハリコシのような食べ方は、もっと見直してもいいように思う。

 こうして、ソバ粉の持つ性格の一端がわかると、そのバリュエーションとして様々な可能性が生まれてくるような気がする。楽しみの多い、今後の課題だと言えよう。

2015年1月26日掲載

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