TOP2015年03月佐久の蕎麦(6) 大根繊切り

 『きりもくさ』の「むじな蕎麦」にも出てくる、大根のせんぎり(繊蘿蔔)。この時代に普通に行なわれていたらしいことがわかる。ここでは味噌汁の中にせんぎりを入れて煮る、そこへソバ粉をとかしこむ、という調理である。

 奥信濃に今も伝承されている「はやそば」は、せんぎりした大根とソバ粉の組み合わせ。せんぎりをゆでて、そこにソバ粉を入れてかきまわす。そばがきよりゆるい濃さで。これをダシの効いた汁と一緒に食べる。

 こうした蕎麦(そば切り)と大根の組み合わせは、相当に古くからあったらしい。佐久地方のように大根のせんぎりの場合もあれば、オロシにした場合も多かったにちがいない。その効用はよくわからないのだが、毒を消す、というような薬効があったのだろうか。

 私より一世代上の女性が、若い時に南佐久の旧家で経験した「そば」のことを書いた手記があった。昭和の初期ころの経験談である。そこに「せんぎり」が出てくる。

 <...叔母さんは、おそばの名人で、...お振る舞い(結婚式、法事、祝い事等)といえば叔母がかり出された。お墓が近くにあったので、よく皆がお参りにきては寄って、叔母のそばを楽しんでいった。障子の閉め切った部屋で半日くらいそば打ちをしていて、麺類板に何枚も作ってフトンがかけてあった。皆がみえると、ゆで方が大忙し。運び手(お給仕)も大忙し。山のように盛ったおせんぞ(大根の千切りをゆでたもの)や細く切ったおはづけが、おこうとしてあちこちに置かれ、ゆでたての冷たいおそばが、一人前重に盛られて、とぶように運ばれる。お腹いっぱいになると、ゆで湯の湯桶が運ばれて、一同大満足というわけです。叔母はなんでも料理は得意でした>(ここに出てくる「叔母」は私もかすかに知っているが、性格がきつい人だったような記憶が残る...)

 この女性に話を聞く機会があった。「せんぞ」は、蕎麦を食べ終わる前に出した、そうするともう一枚食べることができた、というような話もしていた。いずれにしろ、「せんぞ」と蕎麦はかなり深い関係にあったらしい。

 「せんぞ」という言葉は、主に大根をせんぎりしたものを指すようだ。長野県内全体にある(あった)、たぶん全国的に広く使われた言葉だろう。単に「せん」とも呼んだようだが、これが信州とは縁が深かったらしい、とは何かの文献で読んだ。いや、これも全国にあった習慣なのだろう。

 私の子供のころ、昭和20年代では、「せんぞ」を作るのに、大根やカブ(蕪)で、「せんぞつき」という道具を使った。鉋(かんな)のような姿で、大根などを当てて突くと、細い状態に切ることが出来る。子供でも楽に使える、けっこう便利な道具だった。それで、かの女性に、「せんぞつき」で突いたのか、と聞いてみた。ところがそれは、すぐ否定された。蕎麦と一緒に食べるのだから、きちんと角が立っていなければいけない、だから包丁できれいに切る、と答えてくれた。そうか、そういうものか...。

     ☆

 大根のせんぎりを蕎麦と一緒に食べる風習は全国にあったという(新島繁『蕎麦の世界』)。現在は関東地方のいくつかで「大根そば」として行なわれているとか。昨年、たまたま北信濃のイベントで隣りあった若い夫婦に、群馬県の安中地方では、今も一般家庭で大根のせんぎりを蕎麦と一緒に食べる、という話を聞いた。単にそば屋だけではない、住民に広く風習がまだ生きている、と感心した。佐久地方は群馬県に隣接して、こうした風習も近い関係にあったのかもしれない。

 関東地方の各地に点々と、せんぎりを蕎麦と一緒に食べるメニューがあるという。古い食習が今も生きているのは、遠くから見てうらやましい気もする。

 最初かどうかはわからないが、江戸でも信州との関係が深いような雰囲気の話があったらしい。

  『蕎麦全書』(寛延4年=1751脱稿、日新舎友蕎子著、新島繁校注)の「江戸中蕎麦切屋の名目の事」という項目の中に、浅草道光庵の記事があるが、その庵主の出身地は信濃だとか。信濃蕎麦など、蕎麦に関しては信濃がよく登場する。別のところに、次のような記事が見える。

 <一等次なる物には、二八、二六そば処々に有り。浅草茅町一丁目に亀屋戸隠二六そば、和泉町信濃屋信濃そば、大根のせんを添へ遣す>

 大根の「せん」を添えて出す、というのは、信州ゆかりのそば屋の特徴だったのかもしれない。(以上、新島繁校注『蕎麦全書伝』平成18年ハート出版より)。

     ☆

 不思議なことに、大根の記憶は、現在の信州の蕎麦による村起こしなどには、あまり適応されていない。長野市や千曲市あたりに伝わる「おしぼり」は、近年急速に注目されるようになったが、特別な扱いと言ってもいい。

 古くは長野市・善光寺近辺では、都会から来た宗教者などをもてなすのに、米ではなく蕎麦が喜ばれた記録がある。その際に所望されたのが辛い大根で、これは恐らくオロシで出したのであろう。(天明6年=1786にやって来て檀家めぐりをした時の、伊勢の御師荒木田久老の記録「五十槻旅日記」)。

 大根オロシを使う食べ方は、当時の農民の中に定着していたわけではなかったのだろう、と推測するのは、現在に至る間に、その伝統がほとんど消えてしまっているからだ。戸隠大根は漬物用として長野市民に人気は高かったが、大根オロシとして薬味などに重宝したというわけではない。今も戸隠のそば屋では大根オロシを出す店は少ない。以前はまるで見かけなかったものだが。

 「はやそば」なるものは大根の「せんぎり」を使うが、今は山ノ内町須賀川と栄村秋山郷に残るだけ。古くはもっと広い範囲にあったと思われるが、痕跡は少ない(向山雅重氏=上伊那郡=の著書にちょっとだけ出てくる)。

 もっと遠くだと、例えば塩尻の本山宿には、大田南畝(蜀山人。江戸時代後期)の作と伝える「本山の蕎麦名物と誰も知る 荷物をここにおろし大根」の狂歌が残る。それほどはっきりと、蕎麦と大根の取り合わせがあるのだが、今の本山宿ではその痕跡が感じられない。

 もっと古くは、元禄年間(1688)に芭蕉は「更科紀行」で「身にしみて大根からし秋の風」と詠った。これが蕎麦と直結しているとは断定できないが、それに近い要素を感じる...。しかしこれを現代化した話もほとんど聞かない。

 こうして見ると、大根はせんぎり(せんぞ)であれオロシであれ、意外に記憶が少なく、今に続く伝統が育っていない印象が強い。

 現在長野県内で大根のせんぎりを出すそば屋は2〜3あるらしいが、あまり話題にもならない。オロシも、一部の地域以外では、どこか借り物の、あるいはとってつけたような下手なメニューになっている。

 大根は、佐久地方に限らず、長野県のそば業界全体でもう少し本気で取り組んでいい題材のような気がする。

2015年3月16日掲載

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