直木賞作家、桜木紫乃さんの新聞小説「家族晴れ」。さっぽろテレビ塔を舞台に、主人公の青年、菊池太陽の成長を描く“ホームドラマ”です。挿絵はくわはらまいさんです。
さっぽろテレビ塔には、一日平均千二百名の来場がある。ゴールデンウィークの来場者はその何倍にもふくれあがり、展望台までの外階段四百五十三段を上るイベントもある。最速十五分、のんびり四十五分。それぞれのマイペースが塔を賑やかに彩る。 展望台から見る大通公園、石(いし)狩(かり)湾、手(て)稲(いね)山…
一ヶ月近く音信不通となっていた誠が、LINEの既読をつけたことで、家の中のよどんだ空気はおかしな具合に捻(ねじ)れた。 知美が自分から電話をしないことも、既読のみでなんの発信もしない誠のことも、同じ器の中の似たような問題によってなのだろうと思った。そして、驚くべきことにその器の中に太陽はいないとい…
太陽のLINEに既読がついたのは、大型連休を前に、テレビ塔が一気に忙しくなる直前のことだった。 暖房も不要になり、風も乾き、一歩外に出るとその爽やかさに日常抱えたあれこれが散って行きそうな朝、ふと開いたLINEの画面がいつもと違っているのに気付いた。 おとうさん――。 いまどこ? 一度、電話をくだ…
閉めきったドームの中で、寅さんの声がやけに響く。普通に話す声がこれだけ響くのだから、楽器演奏となると音が割れてしまわないかと、ライブハウスでバイトをしていたときのことを思い出した。「企画営業課にお願いしたい仕事のひとつが、このプラネタリウムの再開です」 え、と声が出た。亜美はじっと懐中電灯に照らさ…
テレビ塔の写真を見れば、なんとなく三階部分にドーム型をしたものが見え隠れする。角度によってははっきり見える。けれどもうそれが何であったかを知るひとは少ない。 小竹課長がそんな話をしながら、ペントハウスを思わせるドーム状の建物のドアに鍵を差し込んだ。「ドアはここと対面にあるふたつ。防災上も文句なし」…
半日遅れた配属先への挨拶。具体的な業務内容が知らされたのは、直属の上司である小竹課長が午前中にできなかった仕事を終えてからだった。 午後四時、タワッキーの手入れにブラシ掛けをしていた太陽は、小竹課長に呼ばれて地上九十メートル、展望台の階から始まる外階段出入口へ急いだ。亜美は既にすました顔で引き込み…
企画営業課の小竹課長が愛犬に噛まれて泌尿器科に運ばれた話は、瞬く間に社内に知れ渡った。午後になって本人が出社するころには、すれ違う誰もが「泌尿器科」についての質問をしたらしい。 小竹課長は午前中の休暇申請を提出して、午後二時、改めて会議室での挨拶となった。昔はバイトの女の子の憧れの的だったという小…
「おふたりには『企画営業課』でその力を発揮してもらいたいと思っています」 企画営業課は、テレビ塔キャラクターのタワッキーや、イベントの企画、レンタルホールや展望台の貸し切りプランを受け持つ、タワーの黒子と呼ばれる部署だった。 太陽の脳裏を、タワッキーと共にエレベーターから転がり出た記憶がかすめてゆく…
会議室の椅子に腰掛けて寅さんを待っているあいだも、亜美の視線は窓の外に注がれていた。配属先が決まる日の不安と期待は太陽も同じだ。 眼下に広がる街の景色には、ビルや直線を描くアスファルトの白線や、春を謳(おう)歌(か)する緑がバランスよく配置されていた。真っ直ぐに延びる道の向こうには深緑色の森がある…
研修を終えた翌日は朝から、五月開催のライラック祭りに向けた全体会議の見学をするようにとのことだった。 会議の終了後は休憩をはさみ、いよいよ太陽と亜美がどこに所属するのかを寅さんから聞くことになっている。 ライラック祭りでは塔の一階エントランスにある常設土産物店のほか、ラジオの公開生放送、屋外ライブ…
イベント会場でタワッキーが来るのを今か今かと待っていた子どもたちは、エレベーターから出ようともがくタワッキーと太陽が、勢い余ってごろごろと転がりながら現れたのを見て、全員が号泣した。 声を出せないキャラのタワッキーがうめきながら現場に転がり、起き上がるのにも人の手が必要で、現場は騒然。 古い記憶と…
家にひとつふたつ問題を抱えていたとしても、仕事にはまったく関係のないことだった。バイト時代とは明らかに違う。なにより、家で起こる問題を話せる人がいない。 実は親父が家を出ちゃってさ―― 休憩時間に次の舞台の話をしている清水に、ぼそりと打ち明けられるような日々はもうどこにも見つけられなかった。 一週…
どこを探しても、CDはなかった。誰のファンクラブなのかもわからないし、豪華特典が何なのか、見当もつかない。 太陽は改めて父の「秘密主義」に賛辞を贈りたくなっている。何年も暮らしている生活の場から自分の痕跡を消すという作業は、昨日今日でどうにかなるものではないように思えるのだ。 いままで言葉にこそし…
冬物は持ち出していないようだった。結局、パソコンとスマートフォンと当面の着替えだけを持って誠は消えた。 いや、もうひとつ。 机の上にある領収書や家計管理に関わる小引き出しから、誠の預金通帳と印鑑がなくなっていた。 知美が自分の名前の通帳を開く。「毎月の家計用引き出し以外には、下ろしてない。やっぱり…
太陽の提案で、寝室や誠の机まわり、パソコンやゴミ箱の捜索が始まった。「なにか、遺留品があるはずだから。この際ぜんぶひっくり返しても、とにかく行き先に関わりそうなものはぜんぶ疑って」「わかった」 知美の動きが速くなった。 遺留品、と言ってしまってから、これはまるで事件だぞと思った。父の失踪は確かに事…